« 豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(11) | トップページ | 菅沼新八郎の初見 »

2011.02.26

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(12)

豊千代(とよちよ 9歳)に家斉(いえなり)の諱(いみな)を贈ったのは、伴読の師・林百助(ももすけ)信有(のぶあり 51歳 300俵)であった。
徳川諸家系譜』によると、天明元年(1781)12月2日のことであったらしい。

したがって、以後は家斉と記したい。

天明元年には、もう一つの寿事がおこなわれた。

島津薩摩守重豪(しげひで 37歳 鹿児島藩主 77万石)の養女・篤姫(あつひめ 9歳 のち茂姫)と婚約がととのい、一旦、一橋館へ入ったうえで、江戸城本丸へ移った。

この姫は近衛前右大臣家の養女となって箔をつけたあと、将軍となった家斉と寛政元年(1789)2月4日に婚姻した。
双方ともに17歳であった。

前掲書によると、家斉の第一子・淑姫は、その年の3月25日に本丸大奥の於が産んでいる。
は、紀州勢で小納戸頭取・平塚伊賀守為善(ためよし 300俵)の六女である。
孕んだのは前年で夏であろうから、家斉は16歳、おは推定だが20歳前後。

その後もおは、2男(竹千代 12代将軍を含む)1女を産んでいるから、寵愛は長つづきしたようだ。

側室40人、16腹で28男子、27女子といわれている家斉のはげしいヰタ・セクスアリスを描こうというわけではない。

家斉のあまりにも年少での子づくりに驚いているだけてある。
まあ、育児の手間も養育の費用も気にはならない環境ではあるが。

いや、そういうことだと、平蔵(へいぞう 36歳)も口はばったいことはいえない。
14歳の初体験で精は放ったものの、さいわい(?)実を結ばなかった。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] (

18歳のときには、そうはいかなかった。
出あったのは、縁切り寺へ入る決心をしていた21歳の人妻であった。

【参照】2007年12月29日~[与詩(よし)を迎えに] () (10) (11) (12) (13) (14) (15

銕三郎(てつさぶろう)時代から平蔵を襲名(28歳)してのヰタ・セクスアリスもこのブログの縦糸ではあるが。

家斉のそれは、吉宗(よしむね)の血筋かともおもい、3,4人の第一子をえたときの年齢を計算してみた。
(こんなばばかしい探索は、学問の外のことなので、データは自分でつくるしかない。)

吉宗 27歳
 家重の生誕 正徳元年(1711)12月21日

家重 27歳
 家治の生誕 元分2年(1737)5月22日

家治 20歳
 千代姫の生誕 宝暦6年(1756)7月21日

一橋宗尹 23歳
 重昌の生誕 寛保3年(1743)

一橋治済 23歳
 家斉の生誕 安永2年(1773)10月5日

こうしてみても、家斉の17歳は、いささか---早すぎる---余計なお世話だが。
もっとも、於万が誘い上手だったのかも。


1_360
2_360
(平塚於万の系譜)


|

« 豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(11) | トップページ | 菅沼新八郎の初見 »

011将軍」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(11) | トップページ | 菅沼新八郎の初見 »