江戸・打ちこわしの影響(2)
長谷川平蔵(へいぞう 42歳)という幕臣を、天明6年(1786)から同7年に置き、空想してみている。
この時期の、平蔵その人の業績の史料はほとんどない。
時代を連想させる脇役たちのものは、そこそこ公けになっているし、手元にも若干だがある。
将軍・家治(いえはる 天明6年8月25日薨ずる。享年50歳)
養子・家斉(いえなり 14歳=天明6年)
尾張大納言宗睦(むねちか 54歳=同上)
紀伊中中納言治貞(はるさだ 59歳=同上)
水戸宰相治保(はるもり 35歳=同上)
一橋家民部卿治済(はるさだ 37歳=同上)
田沼壱岐守意致(おきむね 48歳=同上 2000石 西丸側用取次)
【参照】2012414~[将軍・家治(いえはる)、薨ず] (1) (2) (3) (4)
田沼主殿頭意次(おきつぐ 68歳=同上 相良藩主 老中)
松平周防守康福(やすよし 68歳=同上 浜田藩主 老中主席)
井伊掃部頭直幸(なおひで 58歳=同上 彦根藩主 大老)
横田筑後守準松(よりとし 53歳=同上 9500石 側用取次)
本郷大和守泰行(やすあき 43歳 2000石)
小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳=同上 7000石 西丸側用取次)
【参照】2012 年3月4日~[小笠原若狭守信喜] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
松平越中守定信(さだのぶ 29歳 白河藩主)
ここにあげた中の幾人かは、権力をめぐっての抗争にかかわっていた。
それを平蔵は、田沼派に与(く)みするようなかたちで公務をこなしながら、人生を横目でみて楽しんでいた。
竹内 誠さん『寛政改革の研究』(吉川弘文館)に目を通していて、61ページに掲げられているリストの意味するころのすごさに、双眸(ひとみ)がすいつけられた。
尾張藩の記録で、天明6年10月――すなわち、幕府が将軍・家治の死を公表してから5ヶ月間のご三家の当主たちの鳩首会談の頻度をしめしたもので、まあ、よくものこっていたと安堵するとともに、きっちり整理された精勤ぶりにも感心し、田沼派追い落としが着々と準備されていたことにも寒気をおぼえた。
それぞれの藩邸に交互に寄りあっていた回数の多さも驚きだが、もっと注意をひいたのは、尾張家の祐筆の手になるとおぼしい記録、
「殿様(尾張侯)、水戸様、御退出より紀州様へ入られ、暮れ六時すぎ御帰」
当時、老中の江戸城退出は午後2時だから、三家はその前に城を出ていたろう。それから暮れ六ッすぎまで話しあいをつづけている。
おそらく、多人数におよぶ人事案まで話しあわなければ、3時間という時はつぶせまい。
三家といえば、将軍に次ぐほどの重要人物たちである。
それほどのキー・メンが時間をかけて人選しなければならないポストといえば、老中、側用人、所司代、大坂城代、三奉行あたりまでであろうか。
もちろん、話しあいの記録はほとんど表にでていないが、越権ごとともいえる話しあいがおこなわれていたことを田沼意次たちは気づいていたろうか。
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