眼鏡師・市兵衛
『鬼平犯科帳』文庫巻18では[草雲雀]に、巻20では[二度あることは]に登場する、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の下で錠前の合鍵づくりの名人として腕をふるい、いまはすっかり足を洗って眼鏡師として余生をおくっている爺。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
住いと店は、三田2丁目と3丁目の間の道を西へ曲がった5軒目。
年齢・容姿:70歳に近い(巻20 p65 新装版p67)。容姿の記述はない。
生国:〔蓑火〕の配下だったころからずっと盗人宿として住んでいたというし、眼鏡師などという細工ができるのは江戸生まれだからであろう。若いころからの修業がものをいう。
探索の発端:権之助坂の小間物屋〔かぎや〕の亭主は、じつは〔瀬川(せがわ)〕の友次郎と名乗る盗人である。〔蓑火〕の一味にいたときから、市兵衛とは気があい、いまは足をあらっている市兵衛がつき合っているただ一人の現役(いま働き)である。
(参照: 〔瀬川〕の友次郎の項)
その友次郎が、上方で〔西浜(にしはま)〕の甚右衛門を助(す)けて押し入ったたときに、運あしく抱きついてきた手代を振り払ったところ、打ちどころが悪くて死んでしまったことを悩んで、相談にきたことがあった。
(参照: 〔西浜〕の甚右衛門の項)
しかし、友次郎は市兵衛のところから帰ったとき、女房の浮気相手の〔鳥羽(とば)〕の彦蔵に殺されてしまっていた。
そのことを知らない市兵衛が、〔かぎや〕の前をうろうろしたとき、同心・細川峯太郎に挙動を疑われて、自宅をつきとめられた。
結末:〔三雲(みくも)〕の利八に合鍵づくりを強請された市兵衛は、江戸を離れた。
(参照: 〔三雲〕の利八の項)
が、半年後に〔かぎや〕を訪れたところを、張りこんでいた女密偵おまさと〔大滝〕の五郎蔵に捕まり、鬼平に密偵となることをすすめられてしまった。
(参照: 女密偵おまさの項)
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
つぶやき:『江戸買物独案内』(文政7年 1824)に掲載されている眼鏡師の広告---
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コメント
眼鏡師市兵衛
江戸時代には眼鏡はヨーロッパから輸入され、 ガラスを加工して職業としてありました。
わが国では鼈甲などを利用し(中国では水晶と針金)、非常に高価なものでした。 相当の金持ちや身分のある者しか利用しなかった。
眼鏡の需要は高くなく、むかしの人は眼鏡を使う必要は特別夜書物を読む人以外は認めなかったようです。
投稿: edoaruki | 2005.08.03 14:14
>edoaruki さん
そうですか。『江戸買物独案内』の眼鏡店の広告に、「唐物 紅毛物」とあるのは、支那経由といういみでしょうか。
江戸切子でガラスも作っていたわけですが、やはり、透明度が及ばなかったのかな。
もっとも、鉛クリスタルができたのは17世紀の英国ですよね。
ただ、これた゜と重い。
チェコのカリクリスタルだと軽いけど、オランダの港まではこぶのは大変だったでしょうね。
江戸の眼鏡は、近視用というより、老眼用だったでしようか。でも、筆字は20ポイント以上の大きさで書いて書いていたから、老眼鏡は必要じゃなかった?
投稿: ちゅうすけ | 2005.08.03 15:59