十如是(じゅうにょぜ)
「こなたは、下谷(したや)の大光山善立寺(ぜんりゅうじ)の住職・日顕(にっけん)師におわす」
本多侍従(じじゅう)正珍(まさよし 56歳)侯が、中年の寺僧を紹介した。
正珍侯は、駿州・田中藩(4万石)の前藩主で、老中も勤めていたが、7年前に、ある事件の余波をうけて罷免・隠居を命じられていた。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)が西丸の書院番士から小十人(こじゅうにん)の組頭(役高1000石)に抜擢されたのは、正珍がまだ宿老職に就いていた宝暦8年(1758 40歳=当時)であった。
その恩を忘れていない宣雄は、芝・二葉町の隠居所として使っている中屋敷を、銕三郎(てつさぶろう のちの鬼平)をともなって訪れ、話相手をしている。
宣雄たちが、日顕師に会ったのは初めてであった。
まだ40歳代だろうに、太い両眉の尻毛が長くたれて、修行によるとおもわれる温顔を、一層に助けている。
ひととおりの挨拶がすむと、正珍侯が訊いた。
「銕三郎よ。このごろ、奇特な話題は?」
善立寺が甲州・身延山の久遠寺の末とわかり、曹洞宗ではなかったので、安心して、先日の本所・緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕へ押し入った〔初鹿野(はじかの)〕の音松一味による盗難を話題にのせた。
【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
久遠寺が武田信玄の庇護を受けていたことは、長谷川家の菩提寺で、四谷・新寺町の法華宗・戒行寺の住職から教えられていた。
「ほう。いまだに秘法を伝えておる武田流の草の根(忍者)の末裔が、な?」
正珍侯が、意外な---といった表情を見せた。
「ほとんどが紀州の薬込め衆に組み込まれたとおもっていたが---」
「侯。そのことより、銕三郎が案じておりますのは、その盗賊ども一味が手に入れた金高がすくなすぎたゆえ、ご府内で再度の仕事をするのではないかと---」
「銕三郎よ。申してみよ」
銕三郎は、盗賊一人あたりの分け前が、裏長屋の一家の主の1年分の実入りほどしかなかったことを、数字をあげて告げた。
【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (9)
「銕三郎どのとやら。愚僧が申すのもおこがましいが、『法華経』の[方便品(ほうべんほん)]に、[十如是(じゅうにょぜ)]という教えがござっての。愚僧などがものごとを推しはかる時には、かならず、照覧しております」
日顕師が言葉をはさんだ。
十如是とは、
如是相(にょぜそう)---表から見える相
如是性(にょぜしょう)--内がわの本性
如是体(にょぜたい)---相や性をあらわす本体
如是力(にょぜりき)---動作としてあらわすための力
如是作(にょぜさ)-----あらわされた動作
如是因(にょぜいん)---そうなるための原因
如是縁(にょぜえん)---因を補う条件
如是果(にょぜか)----そうなった結果
如是報(にょぜほう)---その結果の後日
如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)
---その結果の実相
と、日顕師は教えた。
「銕三郎どの。ま、推しはかりの手順とでもおぼしめされ」
【ちゅうすけ注】この十如是を、岩本 裕さん『法華経』(ワイド版岩波文庫 1991.6.26)の口語訳は、「それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらがいかなる本質を持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかになるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ」
善立寺のことを、『鬼平犯科帳』の鋭い読み手なら「ああ、文庫巻4の[夜鷹殺し]で、夜鷹の一人が境内で殺されていた寺だね p274 新装版p288」と合点するはず。
善立寺は、大正の大震災まで、明治以後の町名---永住町にあった。池波さんが小学生時代を送った町である。昭和の初期に足立区梅田1丁目へ移転。
(昭和の初年まで、浅草・永住町にあった善立寺 近江屋板)
秋元茂陽さん『江戸大名墓総覧』(金融界社 1998.6.30)に、善立寺には、駿州・田中藩の江戸藩邸で歿した各藩主の妻子の墓碑があり、七代藩主・正珍の側室として、法名に源の字がつけられ、慈行公二女(元禄12卯年1699 7月26日)とあるが、正珍侯が生まれたのはその日付よりも11年後の宝永7年(1710)だから、誤植であろう。
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