〔橘屋〕のお仲(7)
「お父上には、感動いたしました」
お仲(なか 33歳)がいつもの部屋で、早くも帯を解きながら、団扇で風を入れている銕三郎(てつさぶろう 22歳)に言った。
膳がさげられ、水菓子(くだもの)の冷やした真桑瓜(まくわうり)が終わったころあいに、〔橘屋〕忠兵衛(ちゅうべえ 50がらみ)が女中頭・お栄(えい 35歳)を伴ってあらわれたときのことである。
(雑司ヶ谷 鬼子母神脇の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
『江戸買物独案内』第3編 飲酒の部 文政7年刊 1824)
「忠どの。今宵は、久しぶりに、舌にはこの上なき贅沢、胃の腑には常にないほどの苦役を課させていただいた。厚くお礼を申し上げる」
【参照】長谷川平蔵宣雄と〔〔橘屋〕忠兵衛のなれそめは、2008年8月4日[〔梅川〕の仲居・お松] (4)
忠兵衛が手をふってそれをさえぎりながら、お栄に、平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手頭)の馬、内妻・妙(たえ 42歳)の駕籠の手配を言いつけた。
そのときである、宣雄が、お仲に向かって言葉をかけたのは---。
「お仲どの。実(じつ)の入ったご給仕、かたじけのうござった。奥ともども、礼を言わせていただく。銕は、もちろん、残しておきます。ついては、銕の父として、ひと言、つけ加えさせていただきたい」
お仲もだが、銕三郎も緊張した。
「奥の銕を見る目ももっともなれど、わしは、いささか、異なった見方をしており申す。この機会だから、聞いてくだされ。銕のこれまでの乏しいおなご歴を仄聞するに、銕のほうから口説いた例はござらぬげな---。いずれも、おなごの側から持ちかけてきていたと、察しております。これは、わしにはなかった、銕の、徳でござる。男がおなごを口説けば、それだけ、弱みを見せもし、握られもするわけで、失脚のタネもそこからはじまることが多いようiにも---。お仲どのとすれば、銕に、ほかのおなごが言い寄ってはと---心配でもあろうが、そのような浮わついた男には育てなかったと、父は信じており申すゆえ、安心して、よろしゅうに師範してやってくだされ」
これで、忠兵衛には、銕三郎とお仲が公認となり、銕三郎と妙には、釘を一本さしたも同然であった。
結果、こうして、あの部屋が、早やばやとあけられもした。
もっとも、銕三郎は、14歳のときの三島宿の本陣・〔樋口〕伝左衛門のみちびきでお芙沙と出会えたのも、父の気くばりと納得できたのだが---。
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)
ちゅうすけは考えるのだが、もし、平蔵宣雄ときわめて親しい仁が、
「どうして、あのような科白(せりふ)を---?」
と問いつめたら、たぶん、宣雄はこう、答えたろう。
「嫁取り寸前の若者は、ふつう(常識人)なら、30おんなには手をださない。切れるときに苦労するからな。しかし、銕は、切れるときのことはおもんぱかることなく、おんなというものを究(きわ)めておこうと、夢のようなことに賭けたのであろうよ。究(きわ)めても究(きわ)めても、究(きわ)めつくせるはずのないものを---。しかも、困ったことに、気性だとて躰だとて、一人ひとり、千差万別だしね」
銕三郎が、父・宣雄のおもうとおりに存念してのことであったかは、思案の外であるが---。
ま、お仲を有頂天にさせたことだけはたしかである。
寝着をまとったお仲は、栄泉をひらいて、銕三郎に微笑みかけている。
「さあ、こんどは、銕さんが感じさせてくださる番ですよ」
(栄泉『艶本 ふじのゆき』中扉 部分)
銕三郎と横山時蔵(ときぞう 31歳 火盗改メ・遠藤組同心)は、ニ之橋をわたったいつものお熊(くま 44歳)の茶店〔笹や〕の縁台ではなく、橋の手前、東詰の軍鶏(しゃも)なべ屋〔五鉄〕の入れこみに落ちついている。
甲府勤番支配の八木丹後守(たんごのかみ)の署名入りの探索覚え書がとどいたが、他聞をはばかるため、〔笹や〕ではまずいと銕三郎が、ひるどきがおわって客がいない〔五鉄〕へ案内したのである。
三次郎(さんじろう 17歳)が気をきかせて、冷酒(ひや)と軍鶏の肝の砂糖醤油煮を2人の前にはこんできた。
銕三郎が、横山同心に酌をする。
「長谷川どのは、お顔が広いですな」
「〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)つながりで、馴染みになりました」
【参照】2008年4月18日[十如是(じゅうにょぜ)] (3)
「その〔初鹿野〕ですが---」
甲府からの探索次第を概略すると、八木丹後守の命をうけた町奉行所の同心たちが、城下の印伝商12軒をのこらずあたってわかったのは、5年前に、〔穴切屋〕惣右衛門方が受けたあつらえ仕事が、それと判明した。
注文が変わっていたので、店主も番頭も職人も、よくおぼえていた。
まず、印伝袋。
大きさは烏帽子(えぼし)ほど。ただし、うるしを塗る前の鹿革の内張りに、くさり帷子を網目をずらして二重に縫いつけ、それを印伝革で蔽い、口を組紐で閉めるようにしてくれと。
使い道を訊くと、採掘した水晶を入れる袋なので、水晶の根の角が袋の革を裂かないためのくさり帷子の内張り
だと、川窪村の山師・松吉と名乗った小男が説明。
「水晶の入れものに、印伝はもったいない」と言うと、「ほかの山師の品より上質に見せて売値を高めるのだ」と笑った。
小男は、背丈5尺1.2寸(1m55cm前後)、小顔でこれという特徴なし。齢のころ40がらみ。
くさめが癖らしく、注文にきたときも、縫いあがった品を受け取りにきたときも、淡黄紅色の手ぬぐいを、あわてて鼻にあてたのがおかしかった。
指つき手袋ともで4両2分の仕立て賃は、すべてを、いまどき珍しい元禄2朱金で支払った。(図版は弘文堂『江戸学事典』より)
奉行所は、さっそくに、甲府から北へ2里(8km)ばかりの川窪村へ人をやったが、そのような人物が住んだ気配はなかった。
(適当なつくりごとでごまかすことの多い役人の覚え書にしては、事実をかなりつかんでいる。八木丹後守さまの朱筆がなんども入って、贅肉がとれたな)
銕三郎の感想だが、口にはしなかった。
いえば、横山同心も役人の一人だから。
「横山さま。小男は、〔初鹿野〕の軍者・〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへい)に間違いありませぬ」
「手前も、火盗改メのご本役・細井さま組のお役宅で、引継ぎの覚え書を読ませていただき、そうおもいました」
「咄嗟の嘘には、逆を言うのが「〔舟形〕の癖の一つのようです。住まいを訊かれて、甲府の北の川窪村と答えたのは、逆の南---富士川ぞいか、鎌倉街道ぞいのどこかに、盗人宿があるからでしょう」
「ほう。役宅へ戻ったら、甲州の絵図をたしかめて、勤番支配どのへ、再度の探索を申しこんでみます。この軍鶏の肝の煮つけし絶品ですな」
「江戸側での調べは、元禄二朱金に両替した店でしょうか」
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