銕三郎、三たびの駿府
「長谷川さま。お久しぶりでごぜえます」
馬入川の西・平塚側の舟着きで、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の一行を出迎えたのは、ところの顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 41歳)であった。
【参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)
銕三郎は昨日の朝、江戸を発(た)ち、今朝、戸塚宿を早く出た。
先手・鉄砲(つつ)4番手の長山組の与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)、同心・有田祐介(ゆうすけ 29歳)それに供の小者3名がいっしょである。
銕三郎から、それぞれを引きあわされた勘兵衛は、江戸の火盗改メの与力・同心と口がきけたというので、もう、得意になって、
「それはそれは。火盗改メのお役人衆でごぜえましたか。すぐそこの鄙(ひな)びた料理屋の〔榎(えのき)屋〕で、お茶を用意させておりやす。一服なさっていってくだせえ」
周囲の耳にちゃんと入るように馬鹿でかい声で招じて、先に立った。
「長谷川うじ。えらい男をご存じですな」
さすがの佐山与力も、筆頭与力・佐々木与右衛門(よえもん 52歳)から言いふくめられてはいたが、銕三郎の顔の広さを目(ま)のあたりに見て、感にたえたようにつぶやく。
「いえ。ちょっとした行きがかりで---」
と照れたとき、
「長谷川さま。お荷物をお持ちしやす」
「お、洋次(ようじ)どの。いやま、小頭格におのぼりですかな?」
「へえ。おかげさんで---」
【参照】2008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎] (10) (12)
藤沢宿の問屋場(といやば)から、〔馬入〕の勘兵衛あてと、小田原の荷運び雲助・仙次(せんじ 24歳)あて、早便を仕立てておいたのである。
〔榎屋〕では、勘兵衛の妾・お万(まん 32歳)も、きちんと化粧をし、女中たちをしたがえて待っていた。
ここでも勘兵衛は、一行を大声でお万---というより、女中たちと別室にひかえている子分たちへ聞こえるように、
「こちらが、江戸の火盗改メでご与力をお勤めの佐山さま、こちらは、ご同心の有田さま---」
と披露(ひろう)したものである。
これで、勘兵衛の地元での株が、いちだんとあがろうというもの。
茶菓子のほかに、酒も整えられており、お万の強いすすめを断りきれず、左党の有田同心がうけている。
そもそも、銕三郎が一行に加わることになった経緯(ゆすたて)は、こういうことであった。
師走も大晦日に近い夜、駿府・呉服町の京下(くだ)りの小間物を商っている老舗〔五条屋〕へ賊が押し入り、800余両を奪った。
退散ぎわに、竈(かまど)の上の壁に、新しい荒神松を打ちつけて行った。
【参照】2009年1月4日[明和6年(1969)の銕三郎] (4)
半年前に着任したばかりの駿府町奉行・中坊(なかのぼう)左内秀亨(ひでもち) 53歳 4000石 役料500石)から、そのような習癖をもった賊の問いあわせをかねて、捜査の出役(しゅつやく)を請うた書状が、火盗改メ・本役の長山組へ送られてきた。
じつは、長山組のも、元禄8年(1696)以来70数年間、火盗改メの経験が絶えていた。
依頼をうけた佐々木筆頭与力は頭をかかえ、前任・本多組の筆頭与力・小林参次郎(さんじろう 53歳)へ相談をもちかけたところ、
(賊は〔荒神(こうじん)〕の助五郎(すけごろう )一味のようにおもえるが、その賊のことは、長谷川銕三郎どのが偶然に面識があるらしいので、出役の中にお加えになってはいかが---)
との本多紀品の助言がそえられた回答があった。
佐々木筆頭与力が、旅費・謝礼を駿府町奉行所側が負担するのであれば、銕三郎に要請してみてもいいと言ってやったところ、駿府側が持つ---との返事がきた。
(お竜(りょう 30歳)は、なぜ、〔五条屋〕の盗難をしっていたのか)
推察していて、〔狐火(きつねび)〕一味のうさぎ人(にん 情報屋)が駿府にいるのでは---)
銕三郎は、おもいいたった。(歌麿 お竜のイメージ)
だから、出役の中に加わる話がきたときには渡りに舟と、一も二もなく引きうけた。
(もしかしたら、お竜が潜んだのは、駿府かもしれないではないか)
逢ってどうこうではなく、お竜の軍学を習(さら)えたい---銕三郎は、駿府行きをそう、正当化していた。
【参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
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