佐野与八郎政親
「佐野どのの長屋門ができあがったそうな。名代として、午後にでもお祝いをとどけてもらいたい」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、父・宣雄(のぶお 54歳)に言いつかった。
(そういえば、佐野の兄上にも、4年ほどご無沙汰していたな)
【参照】2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親} (1) (2) (3)
2007年9月28日[『よしの冊子(ぞうし]) (27)
2008年11月10日[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5)
銕三郎は忘れている。
たしかに4年前、佐野政親から、銕三郎は、先手・鉄砲の組頭の誰かに、父・宣雄の役職である先手・弓の8番手の席が狙われていると教えられた。
その探索の行きがかりで、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳=当時)と躰をあわせてしまった。(歌麿 お竜のイージ)
銕三郎は、おんなおとこ(女男)だったお竜の中へ入った初めての男となった。
【参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (8)
お竜につながる思い出が強烈だったせいか、銕三郎は、去年の春、茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんうえもん 51歳)の頼みをきいて、農家が茶を喫することを禁じた古いお触書(ふれがき)を廃する手くだを伝授した行きかがかりで、田沼意次(おきつぐ 53歳=当時)の用人・三浦庄司と会った。
その1年前---明和7年(1770)だが、お竜とともに相良へ行き、ほとんど完成していた曲輪内堀の石垣を見、そのことを木挽町の中屋敷で意次に報告したときに、いつものように佐野与八郎も同席していた。
【参照】2009年5月6日[相良城・曲輪内堀の石垣] (3)
【参照】2009年6月1日[銕三郎、先祖返り] (3)
松造(まつぞう 21歳)に角樽をもたせて、永田馬場南横寺町の佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)の屋敷へ溜池にそって坂をのぼる。
(永田町馬場近くの緑丸=佐野家)
あたりの大名屋敷は、さかんに建築の仕上がりがすすんでいる。
そんななか、佐野の屋敷は、長屋門を焼いただけで母屋は奇跡的に火をかぶらなかった。
1000石級の長屋門ともなると、門扉の板も乳房鉄(ちぶさがね)をあしらった堅固なものであった。
【ちゅうすけ注】乳房鉄とは、女性の乳房と乳頭の形をした釘頭隠しの金具。
政親が下城したころをみはからっての訪問なので、書院へ通された。
父からの口上を述べると、政親は笑って、
「そう、気ばられずともよい。こたびの、付火人(つけびびと)の逮捕には、銕三郎どのの交誼がずいぶんと役だったそうですな」
「あ、〔愛宕下(あたごした)〕の元締のことまで、お耳に達しておりましたか」
「組頭どのが申されておりました。銕三郎どのの顔は、慮外なほどひろがっておるとな」
「恐れいります。怪我の功名です」
「ところで、柳営では、組頭どののこたびのお手柄で、遠国奉行へ栄転なさるげな噂が、ささやかれておることをご存じかな?」
「いいえ。父からはなにも---」
「京都あたりと、漏れきいております」
「京---」
「西町ご奉行あたり---」
「しかし、佐野の兄上。わが長谷川家は両番(書院番士と小姓組番士)の家柄ではありますが、祖父・宣尹(のぶただ 享年35歳)までは、だれひとり、役付までのぼった者はおりませぬ。父が小十人頭はおろか、先手の組頭まであがっただけで望外なこと---」
「これ。銕三郎どの。お父上の才腕を、低く見つもってはなりませぬ」
「しかし---」
「上つ方々は、もっと買っておられるのですぞ。それに---」
「それに---?」
「禁裏の役人たちの---」
「京のご所のお役人たちの---?」
「いや。これは、口をすべらすわけにはいかぬことでありました」
| 固定リンク
「094佐野豊前守政親」カテゴリの記事
- 平蔵と佐野与三郎政親(2)(2012.05.20)
- 平蔵と佐野与三郎政親(1)(2012.05.19)
- 佐野与八郎の内室(2010.09.20)
- 佐野与八郎の内室(4)(2010.09.23)
- 佐野与八郎の内室(5)(2010.09.24)
コメント