〔蓑火(みのひ)〕のお頭(10)
小石川大塚町の斜(はす)向いの菅沼藤十郎定享(さだのり 46歳 2022石)邸は、ゆうに2000坪はありそうなほど、広大であった。
もちろん、大塚町という、台地ではあるが、府内のはずれに近いところなので、広い屋敷地をたまわっているのであろう。
門構えも塀(その実、家士や下僕の長屋の脊)も堂々としている。
脇玄関まで、筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 200石)が迎えにでていた。
2年ごしの沙汰なしの詫びごとが互いに終わり、
「日本橋川から西の事件になりそうなので、助役(すけやく)の松田(善右衛門勝易 かつやす 1230石)さまのお手のうちかとおもいましたが、目当ての主がどうやら神田橋に近いところを足場にしておるやに見えますのと、脇屋さまとのなじみのこともありまして---」
平蔵(へいぞう 30歳)のいい分に。、
「よくぞ、覚えていてくだされた。日本橋から北は本役、南は助役と、一応はきまってはおりますが、何分にも相手が相手ですから、並みの役所のように縄張りどおりとはいかないことは、上つ方もお認めになっておりますゆえ、一向にかまいません」
平蔵は、まだ、しかとしたことはわからないので、しばらくは下僕に見張りをさせてかおくが、機が熟したら一報すねゆえ、それまではなにごともなかったふうに扱ってほしいと頼み、ついでの折りにでも、菅沼のお頭から、西丸・書院番4の番頭・水谷出羽守勝久(かつひさ 54歳 3500石)へひと声かけておいていただくと、休みがとりやすいと申しのべた。
脇屋は承知し、費(つい)えは遠慮なく請求するようにとうながした。
小石川大塚吹上の通りを富士見坂へ向かって歩きながら、平蔵は妙なことになったと、胸中でつぶやいていた。
(〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 57歳)の盗人宿にいる〔尻毛(しりげ)〕の長助(ちょうすけ 31歳)のことを明示しなかったのは、なぜであろう?)
いまは四谷の戒行寺(現・新宿須賀町9)の長谷川家の墓に分骨が眠っている〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 享年33歳)に問いかけた。
(お竜、どうしてだと、おもう?)
お竜が笑った。
「銕(てつ)さま。『孫子』の[虚実編]にいうではございませんか。兵を形(あらわ)すの極(きわ)みは、无形(むけい)に至(いた)す。无形なればも、深閒(しんかん)も窺(うかが)うこと能(あた)わざるなり(こちらの布陣の最善は形にしないことである。無形であれば、相手方が潜入させている間者も報告のしようがない)」
深閒---そうか、火盗改メの同心はもとより、密偵もつけいる隙がない。
(しかし、なんのために?)
「それは、銕さまが、〔蓑火〕のお頭に好意をおもちだから、捕まらせたくないのでしょう?」
「なにを馬鹿な。〔蓑火〕は盗賊だぞ」
「わたしもお見逃しになりました」
「それは---」
「盗賊にも器量人はいます。げんに、〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ 55歳)お頭の探索から手をお引きになったではありませんか?」
【参照】2010年2月11日~{蓮沼(はすぬま〕の市兵衛] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
架空の問答をつづけている間に、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)の家の前に立っていた。
【参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] (9) (10) (11) (12) (13) (4) (15) (16)
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