〔於玉ヶ池(たまがいけ)〕の伝六
「よくぞ、いっち先に、お声をかけてくだせえやした」
〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 35歳)は、青白い顔をほころばせた。
平蔵がおもっていた通りの反応であった。
西両国一帯の香具師(やし)の元締・〔薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(ためえもん 55歳)は、柄こそ関取におとらない巨躰だが、頭のめぐりのほうはほとんど伝六にまかせていると推察しての口かけであった。
1年半ほど前に、[府内板化粧(けわい)読みうり]の板行の下打ちあわせで面識のできていた松造(まつぞう 25歳)に都合を訊かせた---というより、平蔵(へいぞう 31歳)のほうから、宿直(とのい)明けの午後を指定した。
薬研堀不動前の玉寿司〔翁屋〕で、九ッ半(午後1時)に昼餉(ひるげ)をごいしょに、という返事であった。
行人坂の火事以後に、一橋北詰に、田沼(意次 おきつぐ 58歳 老中)の肝いりでできた茶寮〔貴志〕へ、隠し子を2人も産ませたお粂(くめ 35歳)を女中頭として入れていたのだが、そこが都合で店じまいすることになった。
「ついては、お粂の身のふり方を助(す)けてもらうわけにはいかないであろうか?」
平蔵は、真面目くさった顔で話した。
「お子ができたのは、何年前のことでやす?」
「お恥ずかしい。上の子が9歳になる。いや、若気のいたりで---」
阿記(あき 享年25歳)と料理茶屋〔橘屋〕のお仲(なか 34歳=当時)との性体験をごちゃまぜにして、さも、真実らしく打ち明けた。
【参照】2008年2月~[与詩(よし)を迎えに] (38) (39) (40) (41)
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
「しかし、10年も面倒をみておられるのはご立派---」
伝六は、意味ありげに、にやりと口元をゆがめた。
(見抜いておるらしいが、気づかぬふりをつづけるしかない)
板台に載ったにぎり寿司が運ばれてきた。
「ここは、川向こうの深川御船蔵町の〔松すし〕で修行してきた親爺(おやじ)がやっておりやす」
「それは重畳。味見いたす」
(松ずし 『江戸買物独案内』)
しばらく寿司を堪能した。
たねもいいが、大釜で炊いた飯の一粒々々が生きているように味わえた。
「初手(はな)から女中頭というわけにはいかないでやしょうが、頭の助役(すけやく)くらいなら---」
西両国広小路一帯の料亭で、女中頭がお粂より齢かさの店をそらんじたのち、伝六は膝をうち、
「ここから2軒おいた北側の料亭〔草加屋〕なら大丈夫でやしょう。硬い店でやすから、長谷川さまのお顔をつぶすようなことはありやせん。のぞいてご覧になりやすか」
「いや。気はずかしいことは逃げたい」
(薬研堀不動前の料亭〔草加屋〕 『江戸買物独案内』)
「いつなりと、ご当人さまをお寄越しくだせえ。〔草加屋〕安兵衛おやじにも、うちの元締にも話を通しておきやすから」
「万事、よしなにお願いする」
【ちゅうすけ注】明治34年に出た松本道別著『東京名物志』に、〔松寿司〕について、
大六天前の「安宅の松寿司」といえば、江戸時代より著名にして、いまなお鮓屋の泰斗たり。
『江戸名物詩』に云ふ。
本所一番安宅ノ鮓 高名当時並ブ可キ莫(な)シ
権家ノ進物三重折 玉子ハ金、魚ハ水晶ノ如シ
その盛なりしを見るべし。「与兵衛」に比すれば、酢味やや多くして上戸に適し、その形の上品なると大なるとを特色とし、ことに鯖の巻鮓はこの家得意の専売品とす。家屋の壮大なるはさながら割烹店の如し。
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コメント
お玉ヶ池といえば、千葉周作を想いうかべますが、最近は龍馬ですかね?
いまでも於玉ヶ池稲荷の小さなやしろがあり、そのかたわらに形ばかりの池(?)がつくられています。
町会の方々のお心づくしと愛着の深さを感じます。
そういう土地を呼び名にしている伝六さんのことだから、きっと平蔵さんと気があうのでしょう。
投稿: 文くばりの丈太 | 2010.06.26 05:28
>文くばり丈太 さん
さすが、ですね---於玉稲荷社をご存じでしたか。
ぼくは、25年ほど前の早朝稲荷さがし散歩でみつけたました。
そうそう、〔鬼平クラス〕をやっていたときには、ウォーキングで参詣しました。
その後、千葉周作つながりで、周作が信仰していたという本所の妙見山にもウォーキンングしました。
歩かないと、発見がかぎられますね。
投稿: ちゅうすけ | 2010.06.26 17:06