川すじの元締衆(3)
「千浪(ちなみ)と付きあうなら、あれが〔うさぎ人(にん)〕だということを心得ておくことだ」
腰丈の寝衣のときはいつもそうするように、わざと右膝を立て、茶碗酒で口をしめらせた里貴(りき 34歳)が訊いた
【参照】[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2 (3) (4) (5) (6) (7)
千浪の素性を、平蔵(へいぞう 33歳)が手短かに語って聞かせると、
「風説を集めておくことは、いずこでも大切なことなのですね」
「一ッ橋の茶寮〔貴志〕で里貴が、相良(田沼主殿頭意次 おきつぐ 60歳 3万7000石)侯のために、民部卿(一橋治済 はるさだ 28歳)さまにかかわる風評、動静を集めたようにな」
「私はただ、耳に入った言葉をおとどけしただけです。千浪さまは、自分の解釈をお加えになっています」
「田沼侯は、生(なま)の風説のほうをお求めになっていたとおもうよ」
「銕(てつ)さまは〔季四〕からのどんな風説をお望みですか?」
「風説は人についてくる。おれは、風説より人とのつながりを求めている。今宵のようなときに、人と人のあいだをとりもってくれれば、それでよい」
「里貴は、唐(から)ノ国で2000年よりもっと前に書かれた『孫子』という本をのぞいたことがあるか?」
「いいえ---」
さしだされた寝着に腕をとおしながら、『孫子』の[謀攻篇]の一節を暗誦した。
---およそ、用兵の法は、国を全(まっと)うするを上となす。
「どういうことですか?」
「里貴のその腰丈の寝衣だ」
「---え?」
「相手をその気にさせ、戦わずして、なびかせてしまう」
「なびくのは、隣りの寝間で---。すぐに、灯を移し、灯芯をあげます」
いそいそと隣室へ消えた。
里貴の透けるほどに白い肌が昂ぶり、淡い桜色に染まっていくのを見るのを平蔵が好んでいた。
潮が退(ひ)いていく感触を躰内でたしかめながら、指は互いの秘所をまさぐり、退きを遅らせようとしていた。
「〔音羽(おとわ)〕のお多美(たみ 37歳)さまが、こんなことをおっしゃいました。夫婦(めおと)になると寝間での所作もお義理になりがちだから、夫婦ではないあいたがらを長びかせるほうが、おんなは幸せかもしれないって---」
「お多美どのは、祇園の大きな料亭育ちで、生きることは楽しむことだと割りきっているお女性(ひと)だ。重右衛門(じゅうえもん 52歳)どのが惚れぬいて、東下(あづまくだ)りを懇請した」
「あの重右衛門さまが---想像もできません」
「この道だけは、外見では計れない」
「ほんに---。里貴は銕さまにぞっこんですが、銕さまは---?」
「いま、身をもって証(あか)したばかりだ」
「はい。うれしゅうございました」
応えながら、お多美さまは「お多美どの」なのに、千浪さまのほうはどうして「千浪」なのだろうと里貴が考えていることなど、平蔵は推察もしなかった。
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コメント
「風説は人についてくる。おれは、風説より人とのつながりを求めている---」
平蔵のこの言葉、すごいです。
たしかに、権七といい、鶴の忠助といい、狐火の勇五郎といい、音羽の重右衛門といい、うらやましいような人的財産です。
ちゅうすけさんは、当初からこれらの人たちを想定してブログを立ち上げたのですか?
彼らの登場で、この裏の『鬼平』は厚みがでています。
投稿: 左兵衛佐 | 2010.11.28 06:19
>左兵衛佐 さん
左兵衛佐 さんや文くばりの丈太 さん、tomo さんやmine さん、asou さん、yotarou さんほかの大勢のみなさんのはげましでつづけられています。
権七や紋次、里貴やお竜やお勝、阿記、芙佐、お仲、貞妙尼、お信といった聖典に出てこないキャラを添えてなんとかもたせています。
これからもご声援いただきますよう。
投稿: ちゅうすけ | 2010.11.28 08:46