誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)
(おや、さげ尼どのか---)
貞妙尼(じょみょうに 25歳)が深ぶかと頭をさげたとき、黒縮緬(ちりめん)の頭巾の後ろから、同じ布地で束ねた長い黒髪に目にとめた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、胸のうちでひとりごちた。
さげ尼とは、有髪の比丘尼をいう。
銕三郎の時代には、増えていた。
(誠心院 『都名所図会』部分)
顔をあげ、表情で察した貞妙尼は、仏に仕える尼はみんなこうか---とおもわすような動きのほとんどない双眸(ひとみ)を真っすぐに銕三郎にそそぎ、
「さげ尼やいうんで、おどろかはりましたやろ。亡夫が、この髪が好きやいうてくれてましたよって、おもいきれまへんのどす。往生ぎわの悪いことでおます」
「美しいお髪(ぐし)と感嘆したところです」
「おじょうずいわはります」
ぴくりとも微笑まずにいう。
眸や眉の動きはあいかわらず止まったままだが、やわらかな京弁が、なんとなくちぐはぐな感じを添えた。
能面と話している気分とでもいおうか。
もっとも、銕三郎は能面と話したことはないのだが。
(面高で、色白で、美しい女(ひと)なのだが、成熟したおなごの艶(つや)がない。〔左阿弥(さあみ)〕の元締は、色ごころ抜きの後ろ楯といったが、これなら、わかるような気がする)
横の円造(えんぞう 60すぎ)が、ふところからだした袱紗(ふくさ)をひらき、2ヶの金包みを銕三郎の前に押し、
「最初(はな)から、別(わ)けさせてもらいました。長谷川はんから、小さいほうの包みを、庵主(あんじゅ)はんにお清めねがっておくれやすか」
大きい金包みは、〔化粧(けわい)読みうり〕のお披露目枠の売り上げ8両(128万円)から、角兵衛(かくべえ)との取り決めができている仲介手間料の2両(32万円)を差し引き、さらに誠心院(じょうしんいん)へのお布施の1両2分(24万円)を小包みにした、のこりの4両2分(72万円)と、承知している。
【参照】2009年8月26日[化粧(けわい)指南師・お勝] (3)
そこから、絵師・北川冬斎(とうさい 40がらみ)、さらには彫り師や刷り職、紙の代金などをはらうと、銕三郎のとり分は1両ちょっとになる。
「お清め、お願い申しあげます」
銕三郎が差し出した包みを受けとるとき、貞妙尼の指が触れた。
と、躰中に稲妻がはしった。
淫情ではなかった。
撃たれたような衝撃であった。
たとえていうと、高杉道場で、銀平師が振りおろした木刀が眉間の半寸(1.5cm)のところでぴしゃりと止まったときに覚えるような衝撃といっておこう。
そのとき銕三郎は、貞妙尼がわざと触れたとはおもわなかった。
尼は無表情である。
(躰が動くところをみると、血は通っているらしい)
立ち直って、
「じつのところは、絵師や彫り師への支払い分も、すべて庵主どのの手からお支払い願おうかと存じましたが、それではあまりに恐れ多いので、拙のほうで仕切らせていただくことにしました」
「造作、おへんのに---」
「いや---」
銕三郎は、次の言葉がでない。
「粗茶を進じますよって、隣りの房(ぼう)のほうへお直りを---」
紙包みを仏壇へ載せ、さっと念仏を唱えてから、ふところへ移し、
「ねずみに盗(ひ)かれてはなりまへんよってに---」
冗談とも本気ともつかない口調でいい、眸(め)を銕三郎にそそぎ、
「房へは、ほんまは、男はんは入れしまへんのどす---けど、きょうは別どす」
房とは、尼の住まいをいう。
戸口は鍵が3ヶ所もかかる、厳重な仕掛けになっていた。
一つひとつを解きながら、
「み仏にお仕えしてる身ィやのに、誘わはる男衆はんがたえへんのどす」
貞妙尼が夜を怖がったので、屋根に隠し鐘楼をもうけ、房の綱を引くと鳴りひびく仕掛けをしたと、円造が口をそえた。
綱は、房のあちこちにさがっている。
「み仏が護ってくれはってるせいか、綱牽(ひ)くような、ひどいことには、まだ、なってェしまへんけど」
貞妙尼は、比丘尼の作務衣にあたる黄色の直裰(じきとつ)の裾をさばいて亭主の座についた。
直裰とは法衣である。
腰のあたりからの下の裳(も)に襞(ひだ)がよせられている着物とおもえばいい。
房の茶室ふうの小部屋では、風炉(ふろ)の灰をほじると、赤くなっていた炭があらわれ、貞妙尼の眸(め)に点のような赤い灯を映した。
銕三郎には鬼女が尼に化けたかとおもえ、さっき貞妙尼の指が触れた手首を、気づかれないように、あらためたが、:気配はなにものこってはいなかった。
それを、茶筅をあやつっている尼が目じりとらえ、かすかに微笑んだのを、銕三郎ほどの剣の上手も見逃してしまった。
動かない表情は、演技であったのだ。
湯はすでにたぎっている。
作法どおりに茶をたて、まず、円造にすすめながら、
「こないになんども、かまわれるんやったら、いっそ、比丘尼御所へでもはいってしもたら、おもいますねんけど、不自由やろと、二の足ふんでます」
「町奉行に言いつけて、夜廻りをきびしくさせましょう」
「おおきに。銕三郎はんの父(とう)はん、お奉行はんどしたなあ」
貞妙尼が、苗字でなく、名を口にしていることの意味あいも、銕三郎は気づかなかった。
気があがっていたのである。
「お寺さんの公事(くじ)をあつかう、西組です」
「そない、元締はんからうかがいました。ええお方とご縁がむすばれて、ほんま、うれしゅおす」
銕三郎の前に茶碗を進め、
「銕三郎はん。これからもよろしゅうにお願い申します」
「こちらこそ---」
茶碗を持つ手がほんのわずかだが、ふるえていた。
礼法どうりにゆすることでごまかしたつもりだが、比丘尼は見とっていた。
【ちゅうすけ注】
誠心院(中京区中筋町)が面している新京極はアーケードの商店街としてにぎわっている。寺が通り側の地所を貸しているのであろうか。
誠願寺の塔頭であったか。真言宗泉湧寺派。
(前段部を拡大)
案内板の〔誠心院〕につけられてふりがなは「せいしんいん」となっているが『都名所図会』も平凡社『日本歴史地名大系 京都市』も「じょうしんいん」なので、銕三郎時代にかんがみ、「じょうしんいん」をとった。
【参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] (2) (3) (4) (5) (6) (7)
【お断り】あくまでも架空の物語で、貞妙尼も実在の誠心院、泉涌寺および同派の寺院もかかわりがないことをお含みの上、お楽しみのほどを。
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コメント
有髪の比丘尼さんがいたなんてこと、初めてしりました。
そういうことも許されていたんですか。
投稿: tomo | 2009.10.11 05:34
>kiyo さん
徳川も中期になると、けっこういたみたいです。
もっとも、比丘尼の姿をした売笑婦もいたこともあつたでしょうが---。
『雲霧仁左衛門』でお千代が化けた尼は、剃髪でしたね。
投稿: ちゅうすけ | 2009.10.11 08:01