隣家・松田河内守貞居(さだすえ)の不幸
中庭に咲きほこっている躑躅(つつじ)の白い花を桟ごしに見やりながら、
(そういえば、このところ、里貴(りき 30歳)の透きとおるような白い肌を、淡い桃色に染めてやっていないな)
小用をたしていると、隣に並んだ仁が、
「齢(とし)を経るということは、小用が近くなるのに、放出は勢いが失せる一方ということでな」
声の主は、奥祐筆組頭の植村政次郎利安(としやす 55歳 150俵)であった。
奥祐筆組頭は400俵格、役料200俵だが、ほうぼうからの付けとどけで、実収入はこれの何倍かといわれていた。
長谷川家も、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の代から、まだ組頭に昇進してはいなかった植村利安のところへ、屋敷が近いこともあり、季節のあいさつを忘れてはいなかった。
植村家は、本所・南割下水の二ッ目と三ッ目のあいだにあった。
【参照】2008年6月19日~[宣雄の後ろ楯] (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
2008年7月5日[宣雄に片目が入った]
植村利安が四人いる奥祐筆組頭の一人に登りつめたのは、2年の前---すなわち、彼を見こんだ宣雄が、京都西町奉行として赴任中に病死した年---安永2年7月1日であった。
憶測を記すと、利安の息・求馬利言(としこと 30歳)の後妻に、田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳 老中・相良藩主)の家老・倉見金大夫(きんだゆう)のむすめを縁づかせたのは宣雄だったかもしれない。
用をすませた平蔵(へいぞう 30歳)が、細々ながながとつづけている植村利安が終えるのを待っていると、
「山田ご奉行の松田河内(守 貞居 さだすえ 68歳 1150石)どのは、長谷川どのの隣家でござったな」
問いかけた。
「さようでございますが---松田さまに、なにか?」
「いや---」
言葉を濁した。
(凶事に違いない)
思ったが、幕政の秘密に関与している奥祐筆組頭が、人事のことを洩らすはずがない。
その日、平蔵は、松田家とのかかわりを想起しながら、
【参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
思いついて、目付部屋の佐野与八郎政親(まさちか 44歳 1100石)あて、茶坊主に密封をとどけさせた。
(今夕、隣家・松田家の変事のこと、お屋敷でお伺いいたしたし)
返書は、(諾)。
供の者を先に帰し、松造(まつぞう 24歳)のみを従え、永田馬場東横町の佐野邸を訪れた。
大目付・小野日向(守 一吉 かずよし 78歳 510石)から聞きだしたことだが、と前置きし、松田奉行の老耄(ろうもう)がはげしく、職がつとまらないとの上申に手落ちがあったために閉門を命じられたことが明かされた。
「老耄、と申しますと---?」
「銕(てつ)どのは、そのような仁を見たことはあるまいが、要するに、物忘れがすすんでしまうのだ」
男の兄弟なしで育った平蔵の兄格であった政親は、いまだに平蔵を、くつろいだ場では幼名で呼ぶ。
78歳でも記憶がしっかりしている小野大目付が憫笑しながら、
「これまでは、奉行所の与力の顔がわからない程度であったが、自分がつれて赴任した用人---内与力(ないよりき)に『どちらさまで?』と問うほどにすすんでしまったらしいので、ついに公けにせざるをえなくなった」
(かんがえられぬ)といった口調であったという。
(留守宅の内室・於千華(ちか 40歳)どのの芝居狂いが閉門の理由でなくてよかった)
三ッ目通りの松田家の南隣の自家への帰路、他人ごとながら、於千華の稚気の残った肉づきのいいおかめ顔をおもいうかべていた。
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