おみねに似たおんな
日なたを歩くと、じっとしていても汗がふきでるような毎日がつづいていた。
朝の登城どきはまだしも、陽が高いうち(午後4時)の城さがりで、南本所・三ッ目通りの屋敷までの徒歩(かち)は楽しいとはいえなかった。
町駕篭の〔箱根屋〕とともに船宿〔黒舟〕を2軒やっている権七(ごんしち 48歳)へ、
「武士(さむらい)が弱根を吐くようになってはおしまいだが、この暑さはやっぱりこたえる」
平蔵(へいぞう 35歳)がこぼすと、
〔鍛冶橋下に屋根舟をもやっておきますから、お使いになってください」
それに、つい、甘えたことから、この事件は始まった。
「久しぶりだから、〔三文(さんもん)茶亭〕でお通(つう 12歳)の看板むすめぶりでも拝んでやろう。辰っつぁん、御厩河岸の舟着きへやってくれないか」
顔なじみの船頭・辰五郎(たつごろう 50歳)へいいつけた。
ちごわげ(右絵→)に結ってもらっているお通と〔三文(さんもん)茶亭〕で冗談をやりとりしながら喫茶をしていると、本所・石原橋側から着いたばかりの渡しから降りた客の中の、20歳(はたち)前後とおもえるむすめの横顔が目にとまった。
(はて。見覚えがあるような---?)
とっさに口からでた。
「松。あの矢絣の単衣(ひとえ)のおんなの行き先をたしかめよ」
こころえた松造(まつぞう 29歳)が出ていったが、受け唇のむすめがだれであったかは、しばらくおもいだせなかった。
記憶をたどり、ようやくついたのは、なんと、13年も昔のことであった。
(おみね坊だ)
【参照】2008年4月29日~[〔盗人酒屋〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
平蔵が銕三郎(てつさぶろう)と呼ばれていた21,2歳のころ、7歳だったおみねとは、おみねの父親が死んだ日に知りあった。
28歳で後家となった母親のお紺(こん)は、亡夫の納骨にいった足利で、お頭・〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)に性技をいいように仕込まれ、〔物井(ものい)〕のお紺と呼ばれる女盗(にょとう)となり、銕三郎の剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 22歳)をつまんだ。
【参照】2008年8月27日~[〔物井(ものい)〕のお紺] (1) (2)
銕三郎はその後、おみねには会っていない。
だから、15歳になるかならないおみねが直右衛門の餌食になったばかりか、数年もしないで年増おんな顔まけの男好きの躰にされていたこともしらない。
少女のころの面影は、受け唇にしかのこっていなかったが、小柄な躰からこぼれでている性的な魔力に、平蔵はあのときのお紺の匂いを感受したのかもしれない。
それは、里貴(りき 36歳)や久栄(ひさえ 28歳)から受ける清らかな性的刺激ではなく、発情期の雌猫のように饐(す)えていた。
ほどなく松造が戻ってき、店の片隅に平蔵を招いた。
「すぐそこ---諏訪町の〔吉沢〕って十露盤(そろばん)屋のお千世(ちよ 19歳)って女中だそうです。主(あるじ)の惣兵衛は隣りの墨筆硯問屋も手広く商ってなっています。1軒おいた足袋股引問屋の〔泉屋〕宗右衛門方で聞きこみました」
「お千世か---」
「殿。せがれの善太(ぜんた 1O歳)が通っている十露盤塾が、〔吉沢〕の2階です」
善太の名を耳にいれた女将のお粂(くめ 39歳)が寄ってき、
「〔染翰堂(せんかんどう)・吉沢〕さんからは、十露盤の筋がいい善太を丁稚にって、声をかけていただいております」
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コメント
おや、おみねちゃんの登場ですか。
盗人酒屋で顔を見せたときはたしか、六才でしたよね。
あれから13年。
お母さんのお紺さんは去年、宇都宮でチラッと姿をみせただけでしたが、こんどのおみねちゃんバッチリですね。
幼馴染に再会した気分ですが、やはり、法楽寺の直右衛門一味として引き込みなんでしょうか。それだと平蔵さんに見られたから危ない。
投稿: tomo | 2011.01.04 05:22