〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(1)
「お申し越しの儀、興趣が湧きましたが、熟慮の末、あ会いしないですますほうが、双方にとって護身になろうかと---」
くせの強い筆跡の返書の大意はそういうことであった。
〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 43歳)から平蔵(へいぞう 36歳)あてのものである。
平蔵からの、(一度、話しあいたい)と書きおくった、中山道・浦和宿の商人旅籠〔藤や〕気付けの飛脚便が熊谷宿・〔富士見屋〕へ転送され、江戸のどこかの盗人宿にひそんでいる五郎蔵の手にわたったらしい。
転送の手順をみても、〔蓑火(みのひ)〕一味の機能が並みのものではないことを、平蔵は読みとった。
【参照】2010年7月19日~[〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵からの書状] (1) (2)
最初に浦和宿の商人旅籠〔藤や〕気付けにしたのは、お信(のぶ 28歳=当時)が情人(いろ)の〔戸田(とだ)〕の房五郎(ふさごろう 34歳=当時)と遊びにいったことを、旅荘〔甲斐山〕での出事(でごと 交合)を終えたあとに告げたからであった。
銕三郎(てつさぶろう)時代に、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 享年33歳)から、〔蓑火〕の喜之助(きのすけ 享年67歳)が、中山道の商人旅籠を買いつないでいたことを聞かされていたから、日信尼の話をやすやすと信じた。
【参照】2006,年2月16日[〔駒屋(こまや)〕の万吉]
このほかにも、生前の日俊老尼(にっしんろうに 享年74歳) と、毎夜のように添い寝をしていたことも告白した。
老尼は、
「比丘(びく 男僧)と睦んではならぬ。抜きさしならなくなる。比丘尼同士がこうして肌と肌をあわせながら邪欲を霧消させ、気を鎮めておるだけなら、破戒にはならない」
老尼はいいわけどおりに満足であったろうが、大年増の日信尼の躰のほてりは鎮まるはずがなく、おき火の始末に苦しんだと。
「老尼の滅寂(めつじゃく)後はどうしておる?」
日信尼は、嫣然と微笑んで応えなかった。
【ちゅうすけ注】その日から10数年後、密貞おまさが〔荒神(こうじん)〕のお夏(なつ 26歳)とおぼしい者に誘拐されたとき、平蔵(50歳)は、お信と日俊老尼との夜の営みをもっと身をいれて訊いておくのだったと、ひそかに悔やんだ。
五郎蔵が会見を拒んだとなると、あっちがどれほどにこちらの風聞を手持ちしているか、しりえない。
元日から3日目の五ッ半(午前9時)に、牛込築土下の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 61歳)邸へ年詞へうかがうのはここ数年来のしきたりだが、牟礼家の門番あたりを居酒屋へ連れだして呑ませれば訊けようが、それを歳末から2,3日のうちにやってのけているところに、底しれない組織力を感じた。
いまの幕府のだれきっている役人では、そう、手早くはやれなかったろうし、気くばりもできまい。
〔五井(ごい)〕の亀吉(かめきち 33歳)の女房(いち 38歳)に年越し金をとどけてやったことを2日もしないで耳にいれているということは、深川・島田町の衣知の家にも看察の糸が張られているということだ。
(こういうときにお竜(りょう 享年33歳)が生きていたら、ある程度は糸の張り方を訊けるのだが---)
ひらめいた。
(〔蓑火〕一味にいたことのあるお勝(かつ 40歳)がいたではないか)
【参照】2008年11月15日~[宣雄の同僚・先手組頭] (7) (8) (9)
お勝には、お竜ほどの計略や策謀の才はないが、観察力はあった。
お勝を浮世小路の蒲焼〔大坂屋〕へ呼び出した。
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