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2011.01.18

贄(にえ) 家捜し

火盗改メのお頭(かしら)としては長谷川平蔵の8人前、先手・弓の2番手の組頭としては3代前の、贄 安芸守正寿(まさとし 享年55歳 400石)のことを調べていることは、『個人譜』も掲げてすでに報じている。

参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 

安芸守正寿は、堺奉行として在職のまま任地で没し、同地の南宗寺(堺市堺区南旅籠町東3-1-2)に葬られたが、墓は空襲で焼失したと同寺の住職から聞きだしたところで、探索が停止してしまっていた。

贄 家は、維新のときに駿河へ移住したにちがいないと見当をつけ、SBS学苑(静岡JR駅ビル)の[鬼平]の1月9日のクラスでも、贄 姓の知人捜しを、再び依頼しておいた。

数日前に、クラスの安池欣一さんから大きな封筒がとどいた。
あけて、驚嘆・狂喜---贄 家の分家の探索史料が、きちんと整理されていたのである。

まず敬服したのは、ぼくがうっかり見のがしていた、贄 家本家・分家の菩提寺をおあたりになっていたこと。
菩提寺は、大安寺(港区西麻布2丁目)。

安芸守正寿の葬地と『寛政譜』に記されている南宗寺にばかり注意が向いてい、菩提寺を手ぬかっていたが、安池さんは、そこから手をつけていた。

じつは、大安寺は、わが家の壇那寺の隣地にある。
資料によると、この寺は永平寺系の曹洞宗とのこと。
永平寺の別院---長谷寺(ちょうこくじ 港区西麻布2)の北にあることの納得がいった。

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(近江屋板切絵図 緑○=大安寺 赤○=長谷寺)

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(渋谷長谷寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

わが家の壇那寺である隣の寺は、切絵図の時代には廃寺であったらしく切絵図には収録されていないが、現在は中興し、長谷寺のれっきとした支院である。

支院の住職に教えられた。
大安寺は、その長谷寺の兄弟寺で、赤坂一ッ木に開基(元和元年 1622)、類焼により、文政8年(1825)に長谷寺の寺域の一部が割かれ、現在地へ移ったと。

いや、待て---大安寺という山号には針先でついたほどのかすかな記憶があった。
聖典『鬼平犯科帳』の、リスト化している寺社データベースを検索してみた。
ヒットした。

文庫巻5[兇賊]。p186 新装版p195、
青山通りで表向きには飯屋をやっている独りばたらきの〔板尻いたじり)〕の吉右衛門の店で、〔鷺原さぎはら)〕の九平(くへえ)が倶利伽羅峠で目にした曲者を見かけて尾行(つけ)た。

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(青山通りに面している梅窓院 池波さん愛用の近江屋板)

男は、通りの向うの梅窓院(ばいそういん)という大きな寺院の脇道(わきみち)を南へぬけた。
突き当たりは青山侯の下屋敷で、その塀沿いにながれている小川に添って、男は、まっすぐに南へ行く。
さびしい畑道となった。
このあたりは土地の起伏が多い。雑木林の向うに、日中なら大安寺の大屋根がのぞまれようという丘の上の百姓家に、男は入っていった。

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(梅窓院は泰平観音堂が有名。池波さんは左手の屋根を大安寺のものとみたのかもしれないが、梅窓院の虚空蔵堂ではなかろうか。鬼平のころの大安寺はかなり離れた赤坂一ッ木にあった)

いまは、些事にこだわっているときではない。

時は天明の大飢饉がはじまろうかという時期でもあったが、ちょっとさかのぼる。

贄 本家は、吉宗にしたがって江戸城入りしていたが、贄 分家は、吉宗の赤坂の紀州藩屋敷で生まれた長子・長福丸(6歳=享保元年)付として西丸入りした善之丞正長(まさなが 42歳=同 200俵)が祖であった。

延享4年(1747)に73歳で歿した正長も、本家の菩提寺・大安寺に葬られた。

贄 一族で最初に大安寺に葬られたのは、小姓として吉宗にしたがって二ノ丸入りした本家の弥次右衛門正直(まさなお 300石)で、享保3年'(1718)に28歳という若さで逝った。
家を継いだのは、次弟・正周(まさちか)で、安芸守正寿(まさとし)の実父である。

維新のときに本家・分家とも静岡へ強制移住させられてからの子孫の記録を、安池さんが追跡したのである。

安池さんが大安寺へ電話で問い合わせたところ、墓は残っているが遺族の参詣はないとのことであったと。

墓が残っているのであれば、香華を手向けないわけにはいかない。、
参詣者が絶えているために花立てもなくなっているのでは---と案じながら、花屋へ走った。

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コメント

大安寺は鷺原の九平のときに登場していましたか! こういうときには、前回教えていただいたココログの検索をかけなくては! 応用能力がなくて困ります。さて、大安寺さんではどうなりましたでしょうか。よい話になれば嬉しいのですが。

投稿: 安池欣一 | 2011.01.18 09:45

>安池欣一 さん
探索と資料、ありがとうございました。
早く探索を始めろ、とお尻をたたかれた感じです。
大安寺さんは、おかげさまで、とっかかりがつきました。
贄 本家とは連絡は絶えたままとのことでしたが、これからのこともあり、ご交誼をつづけようとおもっています。
明日、明後日のこのブログにご期待ください。

投稿: ちゅうすけ | 2011.01.18 12:36

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