おまさ、[誘拐](11)
当ブログ[『鬼平犯科帳』Who's Who]を立ち上げて3、4年のうちはのんびりとすすめていた。
しょっちゅ、わき道へそれては落ち穂でも拾うみたいに、銕三郎(てつさぶろう)の育った時代を横見しいしい楽しんで歩くことも辞さなかった。
2006年11月26日前後には雑史書『甲子夜話』なんかも大真面目で立ち読みしている。
【参照】2006年11月26日[『甲子夜話』巻1―26]
大石慎三郎さんは『田沼意次の時代』(岩波文庫)で、「田沼時代を知るには好適の史料とされ、田沼時代を語る場合には必ずといってよいほど引用されている史料である」が、「問題の多い史料」であって、とくに田沼関連の文章には要注意---とする。
その根拠として、「彼の叔母、戸籍上では妹は、本多弾正大弼忠籌(ただかず 陸奥・泉藩主 2万石)の室(妻)となっている」「この本多忠籌は、田沼意次の政敵である松平定信の最大の〔信友〕」であった。
「さらに、彼自身の室松平氏は伊豆守信礼が女となっている」が、その兄は松平伊豆守信明(のぶあきら 三河・吉田藩主 7万石)で、「忠籌と並んで松平定信を支えた二本柱」
そんなわけで、静山の筆が田沼意次におよぶときには、公正さを欠くと。いや、悪意に満ちた捏造があるといったほうが、より実体にちかいかもしれない。
などとつぶやいている。
大石慎三郎さんの親身なご忠告を高澤憲治さんもそのまま服膺「松平定信政権崩壊への道筋――松平定信と一橋治済・松平信明・本多忠籌との関わり方を中心に―― 」( 国史学 第164号 1998.10)に、定信と信明の関係を次のように紹介している。
松平信明(三河吉田七〇〇〇〇石)は、家祖の信綱および三代あとの信祝が老中を勤めた名門に生まれた。
この誕生秘話については、
【参照】
だが、信祝の子信復は無役、孫で信明の父である信礼は奏者番で死去したこことや、信明の婚約者および彼女の死後正室に迎えた女性の父が老中経験者(酒井忠恭、井上正経)であることは、彼の老中就任への同家の熱い期待をうかがわせる。
このあたり、学者の紀稿文にしては想像力がなまなましい。
大名家の婚姻の利得の一つは、たしかに将来の地位であちたのであろう。
それを史料と史料のあいだにこのようにずばっと挿入される高澤憲治先生の文章には胸がすく。
深井雅海先生の緻密な構成力、硬質文章とともに愛好しているゆえん。
さて余談は措いて――。
天明4年(1784)10月24日に奏者番に就任して老中への第一歩を踏み出したが、同5年に定信や忠籌らのグループに加盟した。
これは危険といえば危険な加盟であったかもしれない。
というのは前年の奏者番への指名は、今風の用語でいうと、田沼意次のチルドレンがための意味があった。
もし、御三家、一橋のクーデターじみた家治の臨終かくしが成功していなかったら、たいへんな報復をうけたかもしれない。
【参照】2012年1月6日[朝会の謎] (5)
2012年3月7日[小笠原若狭守信喜(のぶよし)]) (4)
ここからが大石慎三郎さん説の踏襲――。
定信は信明に①忠籌の甥(肥前平戸藩主松浦 清)の室が信明の妹であり、②信明は田沼政権下で役職に就任したが、養母(父信礼の正室)の養父である駿河田中城藩主本多正珍は、田沼が関わった郡上騒動の審理で老中を罷免されており、③「才は徳にまさ」り「子にはことに服」す、ことから好感を抱いたとおもわれる。
【参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)
当ブログ、8年近く、延々ときてひょんなところで本多伯耆守正珍侯や郡上八幡事件、さらには松平伊豆守信明侯との糸がむすばれようとは、ちゅうすけ自身もえにしの妙に驚いている
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