本多采女紀品(のりただ)(5)
「そこでじゃ、銕三郎(てつさぶろう 家督後の平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)どのが先刻に話した、小田原城下の、薬舗---ほれ、なんとかいいましたな---」
「〔ういろう〕です。外郎とかいう、唐土の官職だそうで---」
先手・鉄砲(つつ)の16番手の頭(かしら)・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)の、番町・表六番丁の屋敷である。
銕三郎は、父・平蔵宣雄(のぶお 45歳 小十人組の頭)に連れられて訪問している。
というのも、東海道・平塚の宿はずれ、馬入(ばにゅう)の顔役に、つい、火盗改メ・本多紀品の相談役と大見得をきってしまったので、その無断詐称(さしょう)の謝罪にうかがっているのである。
「その薬舗〔ういろう〕の盗難にかかわりがありそうな、京の---」
「〔荒神(こうじん)屋〕の助太郎です」
「そう、その者のこと、京都町奉行所へ連絡(つな)いで、更(あらた)めさせるとして、はて、荒神口は、東と西のどちらの支配か?」
京都町奉行所は、東と西の2ヶ所ある(このときから8年後に、宣雄が赴任するのは、西町奉行としてである)。
このとき(宝暦13年 1763)の東町奉行は、小林伊予守春郷(はるさと 67歳 在職10年 400石。ただし京都町奉行の役高=1500石)。
西町奉行は、松前隼人順広(としひろ 36歳 在職7年 1500石)。
本多紀品は、行ったこともない京都の地図を、なんとか描こうと考えこんでしまった。
「うーむ」
宣雄が助け船を出した。
「本多どの。所司代へ申されて、どちらへ申しつけるか、お任せになっては?」
「よいところへお気がつかれた。いまの所司代は、阿部伊予守正右(まさすけ 39歳 備後・福山藩主 10万石)侯でしたな」
「はい。3年前から---」
【参考】阿部伊予守正右については、2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)
(阿部伊予守正右の個人譜は、上の(5) )
京都所司代は、譜代の大名が、奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行を経て就く、若年寄なり老中へ手がとどく要職である。
本多紀品とすれば、その所司代へ書簡を送ることにより、名前が覚えてもらえるという利点がある。
銕三郎は、自分の発見が、こうして本多紀品の出世の手がかりの一つと化していくのを、目(ま)のあたりにして、さきざきの勤仕の要諦をかいま見た思いにとらわれた。
「本多さま。それで、小田原藩のほうは、いかがなりましょう?」
「おお、それもあったな。どうであろう、小田原侯の大久保大蔵大輔忠興(ただおき 51歳 11万3000石)侯の町奉行へは、大久保よしみで、笹本靱負佐(かなえのすけ)忠省(ただみ)どのから連絡(つなぐ)ということにいたしては? この案でいかが? 長谷川どの?」
「よろしいでしょう。では、笹本どのへは、本多どのから---」
「いや。これは、銕三郎どのお手柄ゆえ、銕三郎どののところへ、笹本どのの組(先手・弓の5番手)の与力なり、同心筆頭がうかがうように、申しつたえます。よろしいな、銕三郎どの?」
「はい」
銕三郎は、また一つ、学んだ。手柄は、手柄を立てた者につけてやることを。
もっとも、一番おいしいところは、本多紀品が巧みにくわえてしまったが。
【参考】笹本靱負佐忠省の大久保家つながりの詳細は、200年2月11日[本多采女紀品(のりただ)](3)
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