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2008.12.13

初お目見が済んで(2)

「お月番のご宿老(しゅくろう 老中)は、阿部伊予侯であったな?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、正面・主座に構えいる本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 59歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)へ、まず、酌にでると、訊かれた。

阿部伊予守正右(まさすけ 46歳 備後・福山藩主 10万石)は、このブログではすでにお馴染みの大名である。
ご記憶とおもうが、飛騨・郡上八幡の金森家が除封・召し上げになるときの幕閣評定の記録を寺社奉行時代に詳細に書きとめて、筆まめというよりも、怜悧な人柄を印象づけた。

参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

「はい。拙たちがお上(家治)からお言葉を賜ると、お礼を言上なされました」
「上様のお言葉がわかったか?」
「いえ。はっきりとは---」
「初見の衆には、『いずれも、念を入れて勤めい』と仰せられる」
「まだ、出仕しておりませぬ」
「そうであっても、そう仰せられたのだ」

隣りの座の、納戸町の久三郎正脩(まさひろ 58歳 4070石 持筒頭)叔父が、
「将軍家がわれらにくださるお言葉は、『念を入れて勤めい』ときまっておるのだ。まあ、もっと上っ方々へのお言葉はほかにもあるとおもうがな---」
とつけたした。

「で、銕三郎。阿部伊予侯の返礼のお言葉はどうであった?」
「忝(かたじけの)う、受けたまわりました。みなみな、念を入れてあい勤めますでございましょう」、
銕三郎が、伊予守正右の声色で再現すると、太郎兵衛正直も久三郎正脩も、腹をかかえて笑った。

「しかし、阿部伊予侯は、お側用人の田沼(おきつぐ 50歳 相良藩主 2万石)侯と通じあっておられる。いいお方が月番で、銕三郎はついておるわ」
田沼侯といえば、この家(や)のの宣雄どのもお目をかけられておったな」
本家と納戸町が、うらやましげに話しはじめた。

(拙も田沼侯にはお目にかかっております)
銕三郎は、喉まで出かかった言葉をのみこんだ。
余計なことを自慢して、妬みをかうことはない。

Photo
_360
(阿部伊予守正右の[個人譜])

銕三郎は、阿部伊予侯をどう見た?」
「どう見た---とは?」
「ご老中としての将来よ」
久三郎が、銕三郎の酌を受けながら訊く。
「お躰が---」
「やはり、な」
太郎兵衛正直が口をはさんだ。

ちゅうすけ注】阿部伊予守正右は、半年後の明和6年(1769)夏に47歳で卒(しゅっ)している。

本家からの分家で、正直には従兄にあたる内膳正珍(まさよし 59歳 小姓組番士 500石)が、
「それで、初見衆からの答辞は、どなたかが?」
曽我主水(もんど 22歳 4500石) さまでした」
「本家のご内室・於左兎(さと 44歳)伯母上の甥ごだな」
「やはり、4500石というご家禄できまったようです」
「で、どうであった、お礼言上ぶりは?」
於左兎伯母上は、お鼻が高でしょう」
「そうか、よろしかったな」
しかし、夫である正直は別な感慨を洩らしたて苦笑した。
「いま以上に、実家一族の自慢をされては、われの居場所がなくなる」

_100こういう他愛もない話で、長谷川一族は結束を深めあうのである。
いざ、戦争となったら、一族がそろって〔左三ッ藤巴〕の家紋の旗をかざして出陣しなければならない。
まあ、ここ200年近くも武器をとっての合戦がなく、家紋を染めぬいたをかざすのは裃の肩口くらいですんでいるが---。
(公式用の表紋:左三ッ藤巴 私用の紋は釘貫(くぎぬき)と三角藤)

長谷川一門が藤を家紋としているのは、藤橘源平の藤原氏の秀郷流(ながれ)という由緒だから。
先祖からの血筋でいえば、徳川などよりもはっきりしており、うんとまっとうである。

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