藤次郎の初体験(6)
「13歳は、なんとしても早すぎる」
藤次郎の初体験をめぐって、こんなご意見もあった。
そうかもしれない。
初体験は、機会とはずみの結果ともいえる。
もちろん、道徳観、家庭のしつけ、社会的しばりのせいもある。
銕三郎(てつさぶろう)にしても、東海道を上る旅に出なければ、25歳の若後家・お芙佐(ふさ)と寝所をともにすることもなかったであろう。
が、あったからこそ、ふたしかな妄想ではなく、実の肉体を通して、異性という生涯の探求の的を14歳で得たともいえよう。
初体験は、早い、遅いより、だれから、どんな手ほどきをえたかのほうが、あとあとの性の意識の方向がきまるのかもしれない。
たとえば、岸井左馬之助。
上総国・印旛沼のほとりの臼井から江戸へ出きたものの、高杉道場の隣家・草分名主とちもいうべき田坂の孫むすめ・おふさに対しては、22歳の田舎出の純情な若者にすぎなかった。
【参照】2008年4月9日[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (9)
2008年4月10日[岸井左馬之助とふさ]
それが、ふとしたことから、盗賊の子持ちの後家・お紺(こん 28歳)と知り合った。
【参照】2008年5月4日~[〔盗人酒屋の忠助] (5) (6) (7)
お紺は、急死した亡夫の遺骨収めに足利へ行ったばっかりに、色好みの首領・〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)に性戯をしこたましこまれた。
ふつうなら、仕立てものの賃仕事をしている裏長屋の後家として、終わっていたかもしれない。
江戸へ戻り、左馬之助を遊びの相手に選んだ。
左馬之助とすれば、初の性体験であった。
【参照】2008年8月27日[〔物井(ものい)〕のお紺] (1) (2)
いちど体験してしまうと、機会さえあれば、いや、機会は自らつくってでも、お習(さら)いをすすんでやるようになるのが、まともな若い男(おんなも)の、この道の常である。
【参照】2008年10月17日~[〔橘屋〕のお雪] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
もう一人の剣友---井関録之助はどうであろう。
30俵2人扶持の軽輩の脇腹の子として生まれてしまった。
どうしたはずみか、本所・出村の高杉道場に入門し、銕三郎や左馬之助を兄(あに)弟子にもった。
それで、日本橋室町の茶問屋〔万屋〕源右衛門の妾の子・鶴吉としりあい、その乳母のお元(もと 31歳)とねんごろになった。
お元は、瓦焼き職人の後家であった。
【参照】2008年8月21日~[若き日の井関禄之助] (1)
【ちゅうすけのお断り】[若き日の井関禄之助](2)は、バソコンの誤操作で消去してしまった。
大筋は、高杉道場の稽古を、窓からのぞくのが鶴吉(つるきち 6歳)の日課のようになっていた。
鶴吉が野良犬に悪さをして吠えられているのを録之助(18歳)が助けたのが縁で、鶴吉とお元が暮らす日本橋室町の茶問屋の寮に起居することになり、どちらからともなく抱きあった。
もちろん、教えたのはお元だが、録之助が覚えこむのも早かった。
もう2,3人、年増の手ほどきで男になった仁を紹介したいのだが、当ブログの中では、おもいあたらない。
ま、聖典『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火(きつねび)]を読み返し、おまさ(22歳)が1歳下の又太郎を男にしてやったくだりでも連想するんですな。
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コメント
性的初体験の許容は、民族、宗教、時代、環境によります。
日本でも戦国期には13歳で初陣し首級をあげた若武者もいます。そういう早熟の子であれば、早く体験するでしょう。
栄養とマスコが氾濫しているいまも、概して性的には早熟になり、道徳観も変わりましょうね。
ちゅうすけさんのこのブログの記述は、7000石という当時とすれば特権階層の特殊な風俗ですから、見過ごしていいのではないでしょうか。
投稿: 左馬 | 2010.07.26 06:26
性愛の問題は、文学の一大主題です。
あとは、死と信義。
平蔵の信義と死は描きやすいし、ブログでもこれまでもときどきに触れています。
愛については、久栄とお竜・里貴にことよせて触れかけましたが、性はもっと深い根源的なもの、生命的なものようにおもえてなりません。
折ふし、立ち寄ってみたいとおもっています。、
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.26 11:36