〔初鹿野(はじかの)〕の音松(3)
「お頭(かしら)。北のお奉行・依田(よだ)和泉守政次(まさつぐ 63歳 600石)さまのご三男・又八信興(のぶおき 23歳)どのが養子にお入りになった初鹿野家(1200石)と、盗賊の〔初鹿野(はじかの)〕の音松とは?」
高遠(たかとう)次席与力が与力衆の勤め部屋へ引きさがったあと、自分より3歳年長の寛保3年(1743)生まれということもあって、信興に関心があるらしい銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、大伯父の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 先手・弓の7番手組頭 火盗改メ・本役)に訊いた。
「これ。盗人と町奉行どのの縁家とを、いっしょにするか。外に聞こえたらどうする。それにしても、依田どののことをよく存じているな」
「本多侯のつながりです」
「本多侯とは、駿州・田中藩の前のご藩主だった伯耆守さまか?」
「はい。今川時代に、わが長谷川家のご先祖がお守りになっていたところ、武田方に攻略され落とされたあとの、田中城のご城主でした。勝頼公の自刃(じじん)で、守っておられた依田どのはついに降伏なされたということもあり、伯耆守正珍(まさよし)侯が田中城をしのぶ会を催そうとお考えになったのですが、なぜか、沙汰止みになりました。実現していれば、いの一番に大伯父上にお声がかかったはずです。残念でした」
銕三郎は、大伯父をいい気にさせることも怠らない。権七が笑いをかみしめている。
【参照】田中城と依田家については、2007年6月1日[田中城の攻防] (1) (2)
もし、これが平蔵宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の8番手組頭)だったら、田沼意次(おきつぐ)がお側の身分で、飛騨・郡上八幡藩の農民一揆の処置の評定に着席したとき、北町奉行として評定所の出座していた和泉守政次をおもい浮かべたろう。
【参照】北町奉行として評定にかかわった依田和泉守政次のことは、2007年8月12日~ [徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)
「盗人の〔初鹿野〕の音松は、出生が甲斐国山梨郡(やまなしこおり)初鹿野村あたりということで、そう称しているのであろうが、博徒はともかく、盗人が出生村を通り名にするというのも、おかしなものよのう。火盗改メは、監察の初手を、通り名の村からはじめよう。わざわざ、調べてくださいと言っているようなものよ」
【ちゅうすけ注】太郎兵衛どの。それは、池波さんへ言ってくれ。盗賊たちに地名を冠したのは池波さんなんだから。そりゃあ、〔蓑火(みのひ〕)の喜之助(文庫巻1[老盗の夢])とか、〔墓火(はかび)〕の秀五郎(文庫巻2[谷中・いろは茶屋])のように、鳥山石燕(せきえん)『画図百鬼夜行』からとった名をつけたり、〔血頭(ちがしら)〕の丹兵衛(文庫巻1。題名)とか、〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門(文庫巻5[山吹屋お勝])などのように、1篇1篇で造語していたのではたまったものではない。地名ならご愛用の吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33~)で無限といえるほど拾える。それでちゅうすけは、盗賊の出生地リストを作成して、当ブログにあげた)
「初鹿野和泉守どのの姓は、その姓が絶えるのを惜しんだ武田信玄公からたまわったものらしい。もっとも、武田の家臣であった初鹿野家は、山梨郡に土地を給されてはいたらしいが、初鹿野村ではなかったと聞いた」
「由緒ある姓を、盗賊につかわれたのでは、たまったものではない」
【ちゆうすけ注】これ、銕三郎どのまで、勇み足をするぅ! 『鬼平犯科帳』の盗賊の通り名は、池波さんの手になるものがほとんどで、実在したのは〔葵小僧〕だけですよ。
そんなことより。銕三郎と同年代の初鹿野河内守信興は、のちに北町奉行時代に、平蔵宣以に銭相場の件で利用され、それを苦にしたのか、その年の暮れに48歳で病死した史実を読んでほしい。
2006年7月4日[北町奉行 初鹿野河内守]
銕三郎は、権七にちょっと待つように言い、同心部屋から顔見知りの高井半蔵から紙と筆を借りて、三島宿の本陣・〔樋口〕のお芙沙あての用件を、さらさらと認めた。
権七が、感心したように、筆運びを眺めている。
仙次の盗人宿の見張りを解いて金1両を渡すこと、用立ててもらった金子の返済分ともどもで3両同封したこと、盗人宿を訪れる者があったかどうかは、近所の人に頼んで気をつけてもらうこと---書き終わると小判を包んで密封し、高井同心に、公用の行嚢(こうのう)に入れる手配を頼んだ。
辞去しようとした時、太郎兵衛正直が入ってきて、
「銕三郎。ご苦労であった。これは、わしからのお礼だ。少ないが受け取ってくれ。それから、高遠与力が言ったことは、、組下の者たちに倹約を言いわたしている手前の表向きの話だから、気にしないで、いろいろ探ってみてくれ。報告は、じかにわしに頼む」
(依田家からは、幾人も初鹿野家に養子がはいっている 『寛政譜』)
(依田政次の三男で初鹿野家に養子に入った信興の人生における不幸・不運については、項をあらためて見てみたい。とりあえず、嫡男の自死に注目を)
【参照】[マイナーな武将---初鹿野伝左衛門]
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