明和4年(1767)の銕三郎(10)
「お客さま。お迎えがまいっております」
朝食を摂っている銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)に、旅籠〔小尾(おび)屋〕の女中が告げた。
朝六ッ半(午前7時)である。
やはり、昨日は無理がすぎたか、目覚めが、すこしおくれた。
「お迎え? 拙にか?」
こころあたりがない。
「江戸の長谷川さまでございましょう?」
「そうだが?」
「平塚の〔榎(えのき)屋〕さんから---とおっしゃっています」
〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 39歳)のところからだ。
勘兵衛は、妾に料亭〔榎屋〕をやらしている。
昨日の夕方、今朝の四ッ(午前10時)ごろ、馬入の渡しにかかると早飛脚(はやびきゃく)便を出しておいたのだが---。
門口へ出てみると、たくましい躰つきの20歳前後に見える若者だった。
「洋次と申しやす。〔馬入〕の親分のところの若いもんでやす。お迎けえにあがりやした」
「お迎えって---洋次どのとやらは、夜っぴいておいでなさったのですか?」
馬入川西側から藤沢までは3里(12km)ちょっと。
「いえ。飛脚便が昨夜の五ッ(午後8時)に届きやして、親分が、おめえの足なら今朝七ッ(4時)に馬入を發(た)てば間にあうだろうって。これでも、身内衆のなかでは、一番の足速で---」
「それにしても、七ッに、よくまあ、渡し舟がありましたね」
「親分のお顔は、ひろうござんから---」
「それは、ご面倒をおかけした。では、食事を終えますから、お茶でもあがさってお待ちください」
〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)の手配の結果である。
「洋次どのは、〔馬入〕の勘兵衛どののお身内衆になって、何年になりますか?」
歩きながら、銕三郎が訊いた。
荷物はすべて、洋次が担いている。
軽いからいいと断っても、担ぐと言って、きかなかった。
銕三郎は手ぶらである。
「3年めえ、17のときに、入れていただきやした」
「親ごどののお仕事は?」
「北馬入の水呑み百姓でやす」
「保々(ほぼ)どのの知行地のほうですか。それとも、代官所の?」
「保々さまをご存じで?」
「4年前におなくなりになられた左門貞為(さだため)さまは存じておりますが、お世継ぎの貞丈(さだたけ)どのには20歳におなりだが、拙同様、まだ、ご出仕はないので---」
ほんとうは、面識はないのだが、かつて長谷川家の下僕をしていて、いまは芦ノ湯の湯治宿〔めうがや〕の女中頭・都茂(とも 47歳)と夫婦になっている藤六(とうろく 49歳)から仕入れた知識である。
【参照】200年1月19日[与詩(よし)を迎えに] (29)
「へえ。お役人さまというのは、そんな細かいことまで覚えるんですかい? いったい、公方さまのお役人さまはどれほどおられますんで?」
「初目見(おめみえ)といって、将軍家に拝謁できるのが、ざっと5000家。そのうち、役をいただいているのが4000人でしょうか。役をいただいているというのは、仕事をあてがわれているという意味ですが---」
「その全部の顔と、家の中のあれこれをおぼえるんでやすかい?」
「そうありたいが、まあ、拙など、いまのところ、半分に通じるのがやっと---」
「半分だって、2000でやしょう? ひえっー」
つまらない話だとおもいながら、阿記(あき 25歳)の病気の加減を案じているより、こういう他愛もない話をしているほうが気がまぎれる。
それと、あとで勘兵衛は、銕三郎が話したことを、洋次から根掘りり葉掘り訊くにちがいない。そのためには、話しをふくらませておけば、保々家のためにもなろうというもの。
「いえ。うちは、保々さまの知行地のほうじゃなく、代官所支配のほうでやすが---」
「それはよかった。天(幕府)領のほうが取り立てがゆるやかですからね」
「それでも、おっ父(とう)の言い分では、代官所の手代なぞへの袖の下がたいへんだと」
「洋次どののところのお父ごは、村役人かなにかを?」
「とんでもねえこってす。さっきも申しました、水呑み百姓でやすが、村の寄合からけえると、いつもこぼしておりやして---」
平塚宿の手前(東側)を流れている馬入川は、いまでは相模川呼ばれている。
相模国を代表する川だからである。
(馬入村と馬入川 青小〇=馬入側←→中島村側の渡舟
鬼平の寛政年間に道中奉行制作の『東海道分間延絵図』
河原巾80間(144m 川巾46間(84m)とある)
渡しは、中島村の舟着きと、対岸の平塚郷馬入村の桟橋のあいだを往復している。
渡し賃は16文。
ただし、武家は払わなくていい。
武士姿の銕三郎につづいて、洋次も、払わないで乗舟した。
舟頭は、なにもいわなかった。
勘兵衛の勢力が、中島側にもおよんでいることがわかった。
〔榎屋〕では、勘兵衛が待っていて、戸口からの洋次の、
「親分ッ」
という声に、いそいそと現われた。
「長谷川さま。お久しゅう」
「勘兵衛どの。わざわざのお迎えのお手配、痛みいりました」
「なんの、なんの---。さ、お上がりくだせえ」
「いや。ご好意を無にするようですが、先を急いでおりますので---」
「そうでごぜえましょうが、お茶だけでも---」
「では、ほんの暫時」
「お父上がお先手の組頭にご出世だそうで---。おめでとうございます」
「もう、2年になります」
「火盗改メのお役も、まじかでございましょう」
「まだまだでしょう」
「お先手のお頭(かしら)ですと、先(せん)に火盗改メをなさっていやした、本多(采女紀品 のりただ 53歳 2000石)さまと、ご同役ということに---」
「本多さまのことを、よく覚えておられましたね」
「代官所出先の手代・鮫島(さめじま)さんに、本多さまや長谷川さまのお名をだすと、恐縮しますのでね。はっ、ははは」
【参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)
2008年2月20日~[銕三郎(てつさぶろう)、初手柄] (1) (2) (3) (4)
2008年2月9日~[本多采女紀品(Kのりただ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
「ところで、〔馬入〕の親分どの。芦ノ湯の阿記どのの病状について、なにか、お聞きおよびではありませぬか」
勘兵衛は、一瞬、視線を宙にそらしてから、真顔になり、
「いいえ。一向に---」
銕三郎は、瞬時に悟った。
「先を急ぎます。失礼します。洋次どのは、いい若者ですね」
(江戸時代・旅人携行の『東海道道しるべ』小田原←町や村)
その夜、銕三郎は、小田原の旅籠〔小清水屋〕で、まんじりともせず、夜中でも、箱根道を登りたいほどであった。
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