明和6年(1769)の銕三郎(5)
(あのことも、訊いておくべきであった)
このところ、長谷川銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、ためいきをつくことが多くなった。
〔中畑(なかばたけ〕のお竜(りょう 30歳)が、いずことも告げないで旅立ったせいである。
お竜は、もともとは本拠を中山道の諏訪宿に置く巨盗・〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 47歳)一味の軍者(ぐんしゃ 軍師)であったが、去年の秋、〔狐火(きねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)にゆずりわたされた。
【参照】2008年10月26日~[〔うさぎ人(にん)〕・小浪] (1) (2) (3) (4)
京都に本拠(をかまえている〔狐火〕が、新しいお盗(つと)めの仕込みをするために、お竜と妹分のお勝かつ 28歳)を呼びよせた。
もちろん、仕込みの場所が京都とはかぎらない。
〔狐火〕は、小田原にも妾宅をおいていたし、銕三郎といわくのあったお静(しず 21歳)を東海道筋のどこかに囲っているはずである。
いや、銕三郎が、お竜に訊きそんじたと悔しがっているのは、盗賊たちが「付け火盗(ばたら)き」と称している、放火のどさくさにまぎれて行う盗法についてであった。
お竜の流儀ではなく、〔蓑火〕一味のもうひとりの軍者・〔神畑(かばたけ)〕の田兵衛 42歳)が好んでいるやり方であるらしい。
去年の元旦の朝、〔蓑火〕一味が神田鍋町の海苔問屋〔旭耀軒・岩附屋〕を襲ったとき、高輪・牛町の牛車の牛たちの角に松明をくくりつけて放ち、目くらましをやってのけたのも、田兵衛の考案であった。
あのときには、深川と下谷でも付け火をして、火盗改メの裏をかいた。
【参照】2008年9月2日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (5) (6)
ただ、銕三郎がお竜に訊いておきたかったのは、付け火役に選ぶのは、どういう人柄の者かということであった。
下手をすれば大火になりかねないし、焼け死ぬ者もでかねない。
火の手がはやく見つかれば、付け火した者が町のものに捕まる危険もある。
そのあたりの見きわをつけられる才覚の男を選びだすのは、どこに目をつけるのか。
いや、男とはかぎるまい。おんなのほうが炊事しごとで、火を使い馴れているかもしれない。
お竜が、ちらと洩らしてくれたのは、先手・鉄砲(つつ)の7番手組頭---諏訪左源太頼珍(よりよし 63歳 2000石)の本郷・弓町の屋敷へ、引きこみを入れているというと、奥祐筆・橋本喜平次敬惟(ゆきのぶ 48歳 150俵)の若侍を買収しているということであった。
引きこみを入れる身代のみきわめ方の片鱗は、それでもわかった。
さらに、銕三郎が類推したのは、近江商人たちが江戸へのと商用にもっぱら使っている中山道の商人宿での会話から、押しこみ候補の商舗を選ぶということであった。
銕三郎にとっては、貴重な端緒であった。
3年後、江戸の半分が焼ける---目黒・行人坂の大火---のとき、火盗改メ・本役をつとめていた父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)の頭脳・目・手・足となって、放火犯人逮捕の大手柄をもたらしている。
この事件の経緯(ゆくたて)は、このブログのずっと先にくわしく述べる。
ついでにいうと、おとこおんなのお竜の躰と気持ちを知ったことにより、26年後に、〔荒神(こうじん)〕のお夏(なつ 25歳=当時)に誘拐されたおまさを救いだした手順も、のちのちのお愉しみである。
とにかく、このごろの銕三郎の頭を占めていたのは、お竜の隻言半句(せきげんはんく)を反趨し、めくばせ身ぶりの意味を推察することであった。
もっとも、そのついでに、お竜の白い肌、豊な乳房のわりには赤ん坊に吸わせたことのない小さな乳首、くびれた腹部、形よく茂った恥毛とその奥の熱い泉をなつかしんだのは、若さのせいで、仕方がない。
お竜のほうだって、お勝では得られなかった、銕三郎の振り棒で鍛えたたくましい腕の筋肉、ばねのきいたよく動く腰、直立してはいるが弾力にとんだそのものを、子宮のあえぎを感じながらおもいおこしていることであろう。
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