銕三郎、膺懲(ようちょう)す(3)
「坊(ぼん)さんが一人、でてきよったぜ。背格好から、どうやら、暁達(ぎょうたつ)らしい---」
旅籠〔炭屋〕の2階の表部屋の窓から、はす向かいの西迎寺の山門を看視していた〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)が、助(すけ)っ人としてつめている万吉(まんきち 22歳)にささやいた。
万吉も、彦十の頭ごしに視線をとばした。
看視をはじめて2日目の午後であった。
きのうから神経の張りづめで、さすがの彦十も疲れていた。
横手の仏光寺通りも、まん前の富小路(とみのこうじ)も、〔炭屋〕の亭主・善三郎が示唆してくれたように、僧の往来が多い。
そのたびに緊張していたが、2日目からは、的を西迎寺の山門の出入りにしぼっていた。
すぐに身支度をととのえた万吉が、あとを尾行(つけ)た。
暁達(36歳)は、太めの躰のわりには速足で、富小路を南へ、五条通りで東へむかう。
大橋をわたり、東山のふもとの源泉院の山門をくぐった。
昼間なら、左のかなたに、清水寺(きよみずでら)の大屋根が見えるはずだと、万吉はおもった。
万吉の親は、清水寺の坂下でせんべえを商っている。
門前の花屋で50文(2000円)で供花を買い、店の老婆に、とぼけて住職の名をきいた。
銕三郎(てつさぶろう 28歳)からも〔左阿弥(さあみ)〕の2代目からも、探索に遣う金子を惜しむなといわれていた。
とぼけたふりで、源泉院の住職の名を訊いた。
「元賢(げんけん)はんやおへんかいな。43やいうに、達者なご坊はんや。きょうもまた、新しい後家はんに功徳をほどこしはった」
「うらやましい。うちのおっかあと違うやろな」
「30歳ほどやったよって、違うてますやろ」
「うちのおっかあは、姐(あね)はんに似て、若うみられよるんや」
心得たもので、老婆の噂ばなしに調子をあわせている。
花屋は、50をとっくにすぎているのに、なんと、はにかんだ。
「こんど、昇進しはったとか耳にしたんやけど---」
カマをかけた。
「そんなことおへん、少僧正のまんまや。檀家の後家はんとのことが本山に知られてるよってに、階位はなかなかあげてもらわれへんねん」
長居がすぎるとあやしまれるから、山門をくく゜り、墓域のとっかかりの墓石の花立てに水もそえずに供花を挿しこみ、庫裏のほうをうかがったが、
「そら、あかん!」
元賢らしい声がもれたきり、話し声は聞こえてこなかった。
山門を出るときには、花屋の老婆は奥に引っこんでしまっていた、
翌日、〔炭屋〕をのぞきにきた銕三郎に万吉が昨日の尾行の顛末を告げると、
「ご苦労だが、きょうは、花を倍ほど買って話を訊きだしてほしい。元賢とねんごろになった後家さんたちの名と住まいが知りたい。できたら、元賢の素性も---。それから、法泉院に出入りしている僧たちのことも---」
彦十の報告は、ゆうべ、暁達が西迎寺へ戻ってきたのは五ッ半(午後9時)まえだったが、酒を呑んでいたふうで、赤い顔をしているのが、月明かりでみとめられたと。
「破戒に加えることの、一だ」
山伏山町(錦小路通り・室町通り上ル)の本拠へ着いた銕三郎は、お貞(てい 享年25歳)の母・お兼(かね 47歳)に2つのことを訊いた。
旦那寺の山号、その所在、宗派、住持の法名と年齢。
もうひとつは---、
ここへ移るまえの住まい---油小路通り・二条通りの2件軒長屋の隣人。
旦那寺のことを訊いたとき、目じりと口まわりの皺はかくせないが、お貞どうようにととのった眉間に、影が走った。
寡婦になったとき、布団にはいってきて、お貞の太ももにすりつけて後家の欲を耐えていたというが、お貞が嫁したあとのことはわからない。
40歳にはなっていなかったろう。
寺は、花園の天寿院で、いずれ、この家に安置してあるお貞の遺骨も納めるといった。
「迂闊なお質(たず)ねごとだが、拙が貞妙尼と二条油小路町のそなたの家を借りたとき、泊まりにいったのは天寿院の庫裡(くり)でしたか?」
「8年ほども世話になっており、うちのほうが出向きますよって、近所はしりはらしまへん。親戚の家へ姪の子の世話にいっとる、おもうはるようどす」
「つかぬことをお訊きしました。この場かぎりで忘れます」
「おおきに」
隣家の主・お銀(ぎん)も、寡婦で、齢はお兼より15も上の、60すぎという。
生活(たつき)は、亭主が残してくれた6軒の長屋の店賃と、呉服屋の通い番頭をしている息子からの仕送りでやりくりしているという。
ちょっとした菓子や漬物などをやりとりする仲らしいが、お兼の仕立て物は、お銀の息子のこころづかいだと。
「お銀どのの菩提寺は?」
「筋屋町の、なんとやらいうお寺と聞いたことがおますが、覚えてェしまへん。すんまへん」
表情を殺してさりげなく、仕立ての仕事をまわしてくれる、お銀の息子が番頭として勤めている呉服屋の屋号と町名を訊いた。
仏光寺通り・麩屋町通りの〔丹波屋〕との返事。
(太物類〔丹波屋〕 『商人買物独案内』)
(暁達の西迎寺と1丁と離れてはいない)
「ここへ移ってからの仕立てものの受けわたしは?」
「ここからは〔丹波屋〕はんが7丁ばかりと近いよって、じかに、うけわたしょ、おもうてますねん」
「では、まだ、ここのことは、伝えてない?」
「ええ。仕上がったら、うちがもっていこ、おもうて---」
「ここを、決して明かしてはなりませぬ。知られると、命があぶない」
【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] (1) (2) (4) (5) (6) (7)
2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
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