長野佐左衛門孝祖(たかのり)(5)
「3の組の長野さまからです」
いつもの同朋(どうぼう 茶坊主)が小声でいい、折った紙片をすばやく手渡してくれた。
西丸・書院番3の組の長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600石)からの文であることはわかった。
厠(かわや)へ立ち、開くと、
(今宵、妻恋町(つまこいちょう)へ来てくれ)
とだけ、認(したた)めてあった。
妻恋町といえば、平蔵の頼みで、広小路の元締・〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 27歳)が孝祖の愛人・お秀(ひで 18歳)のために手くばりした家である。
そのために、平蔵は17両(272万円)を用立てた。
家賃の3年分の前払いやら、所帯道具・当座の生活費、それに猪兵衛への謝礼であった。
訪ると、あの夜以来初めて顔を見るお秀が、目立つほどに太めの腹で出迎えた。
玄関と2部屋の家だが、お秀ひとりの暮らしには充分である。
「わざわざ、済まぬ」
奥の部屋から、孝祖が声があった。
「あの夜、すでに---?」
「そうだ。いま6ヶ月だ。それで、相談がある」
お秀が、湯飲みに酒、小鉢に胡瓜もみを膳にのせてだした。
「金なら、しばらく待ってくれ」
「いや。金は足りている」
「む?」
お秀は、竃(かまど)の前で、こちらに脊をむけたままであった。
「流すところを、〔般若(はんにゃ)〕の元締に訊いてくれないか?」
お秀の肩がふるえているのを目の隅でとらえ、
「断る」
お秀のふるえがとまった。
「産ませるんだな」
「室が承知すまい」
「奥方にはかかわりない。お秀どのの気持ちのほうが大切だ」
「うむ」
「生まれてから先のことなら、相談にのる」
なんともやりきれない、重い気分で三組坂(みくみざか)を下った。
戸口を出るとき、お秀が涙を拭きながら、深ぶかと頭をさげたのが、せめてもの救いであった。
〔般若〕の猪兵衛に、どんなに言ってきても、聞くなと、怒った声で禁じ、
「長谷川さまのご命令にそむくようなことは、決していたしやせん」
猪兵衛が胸をたたいたのを見て、いささか怒りがおさまった。
御厩河岸で渡し舟に乗りながら、
(おれも、大きな口をたたけたものではない。阿記(あき 享年25歳)に産ませた於嘉根(かね 9歳)を上総(かずさ)の寺崎へやったきりだ)
【参照】2008年7月27日~][明4年(1767)の銕三郎] (11) (12) (13) (14)
【参照】2008年3月19日~[於嘉根という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
★ ★ ★
きのう、週刊『池波正太郎の世界 17』[剣客商売 四]が送られてきた。
巻末のシリーズ・俳優さんによる『わたしと池波作品17』は、『鬼平犯科帳』で井関録之助を明るく演じている夏八木 勲さん。筵を躰に巻いての撮影のときの秘話が笑わせる。いつも、ひょうきんで生一本の録之助らしい。
| 固定リンク
「097宣雄・宣以の友人」カテゴリの記事
- 盟友との宴(うたげ)(5)(2012.04.19)
- 盟友との宴(うたげ)(4) (2012.04.18)
- 盟友との宴(うたげ)(3)(2012.04.17)
- 盟友との宴(うたげ)(2)(2012.04.16)
- 盟友との宴(うたげ)(2012.04.15)
コメント
今日の平蔵さん、立派。佐左さんも思いなおさざるをえません。
投稿: tomo | 2010.04.08 05:07