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2010.05.02

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(15)

中山道を、ずんくり小肥の岩次郎(いわじろう 52歳)と青白い肌を赤く焼いた由三(よしぞう 19歳)が碓氷峠を上っているころ、江戸では、町名主の代理人たちが町年寄役所へ呼ばれ、火盗改メ本役・菅沼藤十郎定亨(さだゆき 45歳 2022石)の達しを写しいた。

間口4間以上の商舗で、信濃国に人別がある者を、ここ5年以内に雇いいれた店は、名、年齢、職、請け人を記し、7日のうちに提出すること。

一風変わった達しであった。

さらに奇妙だったのは、この達しの5日のあいだに、男7人、おんな5人が雇い主に断りなしに姿を消したことであった。

結果を聞いた先手・弓の2番手の菅沼組の筆頭与力の脇屋清助(きよよし 47歳)と長谷川平蔵(へいぞう 30歳)は、腹をかかえて笑いあった。
策は、平蔵が樹(た)てたものであった。

それから旬日後、京都では、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 54歳)が、持ち家である五条大橋東詰jの宿屋〔藤や〕の地下に設けられた秘密の部屋で、2人の配下とともに〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 55歳)と〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 59歳)と談じこんでいた。

蓑火〕側の配下2人は、身の丈6尺(180cm)はあろうかという大男で小頭筆頭の〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろうぞう 38歳)と軍者(ぐんしゃ 軍師)の一人〔神畑(かばたけ)〕の田兵衛(でんべえ 47歳)である。

参照】2008年8月30日[{蓑火(みのひ)〕のお頭] (

「それがね、〔蓑火〕の。どうにも、解(げ)せないのよ。火盗改メ・本役の菅沼藤十郎定亨というご仁について、うさぎ人の小浪(こなみ 36歳)に風評をあたらせたのだが、配下にまかせきりで、自分から策を練る頭(かしら)ではないと。西丸の目付時代にもさしたる働きはなかったそうで--」

参照】2008年10月23日~〔うさぎ人(にん)・小浪] () (2) (3) (4) (5) (6) (7)

「で、がしょう? うちの草の根(諜者)にも、菅沼が組頭に任じられている先手・弓の第2組にもさぐりを入れさせたが、動いた気配いないのですよ」
喜之助お頭の言を引き継いだ田兵衛が、
「まったく不思議です。調べが、信濃からので出稼ぎ人にしぼられたということは、まるで、うちの組に狙いを定めたとしかおもえやせん」

大滝〕の五郎蔵は、なにかを思案しているように、腕組みをほどかず、じっと天井をにらんでいた。

「〔蓑火〕のお頭。軍者(ぐんしゃ 軍師)の〔殿さま栄五郎(えいごろう )どんは---?」
瀬戸川〕の源七が、座の空気をやわらげるようにしようとでもかんがえたのであろう、
「どう、見ていると---?」
「それが、岩村田城下から戻ってきた由三岩次郎を寝掘り葉掘り問いつめたが、かいもく見当がつかないと書いてきているのですよ」

五郎蔵が何かをおもいついたかのように腕組みをほどいたが、口にしなかった。

ちゅうすけが察するに、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)を〔狐火〕へ譲ったことが手落ちではないか、と気づいたのではないかとおもう。
は、うさぎ人の小浪とちがい、考えぬくほうだから、この場合の手違いを指摘できたろうと。

さすがの五郎蔵も、つなぎ(連絡)役の〔尻毛(しりげ)〕の長助(ちょうすけ 31歳)の毛むくじゃらが手がかりになっていたというところまでは考えがおよばない。
自分たちは長年見なれているから気にしたことがないからでもあり、仲間を疑うことはしたくないとのおもいが働いていたこともあろう。

「とにかく、江戸での盗(おつとめ)は、しばらく、休むより仕方がない」
うなずいた勇五郎が、
「まあ、手前のところは、江戸はずっと手びかえてきたから仕事には差しつかえはないが、〔蓑火〕どんのところは手びろくやってござるから、お困りでしょう」

勇五郎源七も、お平蔵(当時は銕三郎)とが、躰でむすばれた仲になっていたことは秘しとおした。
蓑火〕が平蔵に仕掛けをしては、大器に育ち始めたあの若者の将来に傷がつくことを恐れたからである。

参照】2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根船
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (
2009年5月21日~[真浦(もうら)の伝兵衛] () (

参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (16

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コメント

また、蓑火は平蔵にやられましたね。
お竜を狐火にゆずったのがいけなかったんですかね。
人事はいつの世もむつかしい。
それをうまくさばけたのは、小説の鬼平だけでした。

投稿: 文くばり丈太 | 2010.05.02 15:30

>文くばり丈太 さん
調べものをしていて、レスが遅れてごめんなさい。
調べものというのは、安永5年(1776)4月の将軍・家治の日光参詣の列に、平蔵も選ばれたかどうか、でした。
結果は、不選でした。当然ですよね。西丸の家基は参加していなかったのですから。
こんなことがどこに記録されているか、ネット検索でも、キワードがなかなか思いつかなくて。

投稿: ちゅうすけ | 2010.05.04 10:43

割り込みすいません。
そういえば、公方様の日光社参に御世継ぎが同行したことってないんですね。
三代様が世子時代に社参したことはあるようですが、二代様と同行ではなかったようで・・・八代様や十二代様のときは御世継ぎが病弱だったからだと思っていましたが・・・もしかして、危機管理のために一緒に参詣できない不文律でもあったのでしょうか。
一行に不測の事態が生じたときに、一緒に行動すると危ないから、ということはないでしょうか?
将軍世子や大御所様が西の丸に入るのも、また二代様に将軍を譲った権現様が駿府に移ったのもリスクを分散するためだったと書いたものを読んだ記憶がありましたが・・・

以前、家基公が鷹狩りをかなりの頻度でされていて、家治公はさらに頻繁にされていた、と教えていただきましたが、これは父子一緒だったのでしょうか?それとも別々だったのでしょうか?
もし「父子一緒でなかった」のなら、リスク分散のために別行動という仮説が成り立つような気がします。

投稿: asou | 2010.05.04 17:41

>asou さん
お察しのとおり、危機管理の一つでしょうね。ただ、いつからそういうしきたりになったのかは不明です。10数回日光参りをした家光を調べれば判明するかもしれませんね。

放鷹も、家治は世子・家基とはいっしょにやっていません。これも、さかのぼって、ほかの将軍を調べる必要があるのは、どなたかがすでにお調べになっているのか、危機管理の佐々淳行氏に訊いてみます。

投稿: ちゅうすけ | 2010.05.05 05:42

>放鷹も、家治は世子・家基とはいっしょ>にやっていません。
ありがとうごさいます。
やはり一緒ではなかったのですね。

以前、幕末史を愛好するサイトで、十二代様が一橋家の養子になった十五代様(まだ将軍後継者ではない)を連れて狩猟をしていた、よほどお気に入りだったのだろうけど十三代様は面白くなかったのではないか、とあったのですが・・・
もともと狩猟を将軍と世子が一緒にやらない不文律だったのなら、たとえ十三代様が健康でも状況は変わらなかったのですね。

実は、日光社参に家基公が同行していたとばかり思いこんでいたのですが・・・汗

投稿: asou | 2010.05.05 10:29

幕末は詳しくしないのですが、12代と13代の年齢差は31歳。12代と15代は44歳。したがって13代と15代の差は13歳。
いつごろの放鷹の事が知りませんが、将軍と世子は柳営内は別として、城外では一緒に行動をしないというのが徳川の危機管理策のひとつとしてきめられていれば、13代が僻んだと推量するのはあたらないのでは?

投稿: ちゅうすけ | 2010.05.05 12:53

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