里貴(りき)からの音信(ふみ)(2)
きょう、堺ご奉行の佐野備後守(政親 まさちか 47歳 1200石)さまが突然、いらっしゃいました。
いきなりの書き出しであった。
いかにも、決断のはやい里貴(りき 34歳)ふうである。
いつぞやも、腰丈の寝衣をあつらえさせたといって着替えたのにはおどろかされ、そそられた。
【参照】2010518[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] (2)
ご老中・田沼(主殿頭意次 おきつぐ 60歳 相良藩主 3万7000石)のお言いつけとのことでした。
1刻(2時間)ばかりお話をしましたが、話題は、銕(てつ)さまのことばかり。
弟のようにいつくしんでいらっしゃいましたのね。
お帰りになってからも、火がついたように、御宿(みしゃく)お稲荷の脇の家で銕)さまとすごした宵のあれこれが走馬灯のようにはっきりとよみがえりました。
【参照】2010118~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (1) (2)
父は、わたくが帰郷してまもなくみまかりました。
でも、銕さまが薬料の足しにと大金を送ってくださいましたときの文に、返書は無用---とありました。
これは縁切りかと、どんなに泣きましたことか。
佐野さまとお話しして、銕さまが、ひそかにわたくしのことをおもってくださっているとわかり、おもい切って筆をとりました。
(西丸の目付であった佐野の兄者は、牟礼(むれい)(郷右衛門勝孟(かつたけ)与頭あたりにまで手をまわしていたに違いない)
【参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] (1) (2) (3)
まず、大金を2度もお送りくださいましたことに、あつくお礼を申しのべます。助かりました。
父の死で、母の老耄と衰えが一気にすすみました。
足が弱りきっているので、出歩きはしませでしたんが---あ、こういう愚痴をお報らせするために筆をとったのではございません。
ええ、母も先日、逝きました。
いまや、恐れるもののない、天涯孤独です。
これまでに輪をかけて、われなりに生きられます。
佐野さまは、堺へでてこい、〔貴志〕のようなしゃれた店をみつけてくださるとのお申し出でした。
でも、銕さまを知ってしまったわたくしには、こんご、銕さま以上の男iここの世であえるとはおもえなくなっているのです。
やさしくて、たくましくて、私欲のない、まことの男というものを知ることができ、しわせでした。
(おいおい、自惚れるなよ。里貴に助けられたことも多いんだから)
【参照】2010321[平蔵宣以、初出仕] (2) (3)
2010年4月23日~[女将・里貴(りき)のお手並み] (1) (2) (3)
溺れて悔いのない営(いとな)み、頂点のない高みまでの睦(むつ)み---味あわせていただきました。
(それは、おれのほうもだ)
【参照】2010年4月9日[里貴の行水]
2010年5月16日[鑓奉行・八木丹波守補道(みつみち)] (2)
これから村をでて行くなら、銕さまのいらっしゃる江戸でなければ、おんなとして生きている甲斐がないと思いきわめております。
そのときは、また、こころの支柱になってくださいますか。
かしこ
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