〔橘屋〕のお仲(5)
今夜も、〔橘屋〕の離れの部屋には、香が炷(た)かれていた。
銕三郎(てつさぶろう 22歳)と、この料理茶屋の女中・お仲(なか 33歳)が話しあっている。
お仲の躰に月のものが訪れているので、裸にはなっていない。
(『栄泉あぶな絵』[青すだれ])
裸になっていない分、5日前に見た春本の姿態になっている。
「今宵は、出事(でごと 性交)の匂いはのこるまいに---」
「いいえ。男とおんながひとつ部屋へこもっているだけで、そのことをしなくても、その匂いが畳や座布団に忍びこんでしまうから、鋭いお客さまはおわかりになる、とお栄(えい 35歳 女中頭)さんがおっしゃるのです」
「印伝(いんでん)の手がかりが、実(み)をむすぶとよろしいのに---」
お仲は、自分が観察したことが、自分を殺(あや)めようとしていた賊の逮捕にひと役買いそうなので、きょうの出会いが交合抜きでも、気分がこころもち高ぶっている。
「あれ抜きだと、お仲のお脳(つむ)は、とりわけ冴えるようだから、これからも、抜きで逢うかな」
「そんなの、いやです。でも、いまの言い方だと、あたしが、まるで、色きちがいみたいじゃないですか」
「わたしは色ごと好きじゃないなどと、自分で言うおんなは、大うそつき者さ。お仲が、色ごとが大好きなので、拙は、学びのすすみが速いと、喜んでおる」
「よかった。あのことで、わたしの躰が芯まで悦(よろこ)ぶからこそ、お脳も冴えるのです。おんなは、子宮とお脳がじかにつながっているんです」
「塾の師匠がいつものたまう。青春の期間だけでも、あのことをかんがえさせない薬ができたら、学問はいまの100倍もすすむだろうって」
「それは、男の人にかぎりません。おんなも、そう。でも、そんな薬ができたら、世の中が100倍、つまらなくなります」
お仲の、他愛もないたわ言を聞きながしながら、銕三郎は、父・平蔵宣雄(のぶお 49歳)が、20年近く前に家督相続をいっしょに許された16人の中に、本多なんとやらという仁が、甲府勤番で、まだ、あちらに勤めているように父から聞いたのをおもいだしていた。
あくる日の夕刻、晩飯のあと、
「父上。いつだったかお聞きした、〔初卯の集い〕とやらは、まだ、つづけておられますか?」
〔初卯の集い〕とは、幕府から遺跡継承の許しを申しわたされた4月3日のその年(1748)、9日後に寛延と改元され、その年がたまたま卯年にあたっていたので、験(げん)をかついで命名したもの。
【参照】2008年6月30日~[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)
「わしを含めて10人のうち、倉林どのと田村どのが亡くなられ、いちばん若い米津どのもずっと伏せっておいででな。それに、甲府勤番の本多どのが、今年は都合がつかなかった。あの仁がみえないと、会が陽気にならなくて---」
【ちゅうすけ注】
倉林五郎助房利(ふさとし) 宝暦4年(1754)6月20日卒 34歳
田村長九郎長賢(ながかた) 宝暦6年(1756)12月26日卒 28歳
米津昌九郎永胤(ながたね) 明和4年(1767)11月24日卒 36歳
「その本多さまに頼みごとがあ.るのですが---」
銕三郎が、盗賊一味が鉄菱を入れていた印伝の袋と指つき手袋のことで、甲府の印伝をあつかっている店々を探索する願いをごとを、本多作四郎玄刻(はるとき)に頼みたいのだと告げると、
「なにを、たわけたことを---」
宣雄が笑った。
「は---?」
「納戸町の於紀乃(きの 68歳)伯母がおられるではないか」
「於紀乃伯母ご?」
「しっかりせい。伯母ごの実家()は小川町一ッ橋道の八木家じゃ」
(小川町一ッ橋道(現・白山通ぞい神田神保町あたりの八木邸))
「あッ。甲府勤番支配の八木丹後(守)さま---」
「そうじゃ。本多どのには、勤番支配さまから命じていただけば、公務になろう」
(八木十三郎補道の寛政譜 叔母が長谷川久三郎正誠に嫁す)
於紀乃は、八木十三郎補道(みつみち 盈道とも 54歳 4000石)の父の妹、すなわち叔母で、納戸町の大身・長谷川讃岐守正誠(まさざね 3年前に享年69歳 4070石)に嫁(か)し、2男1女をもうけ、なお健在であった。
(紀伊守正長の三男が立てた長谷川家六代目・正誠『寛政譜』)
つまり、於紀乃から甥・補道へ一筆添えてもらえ、ということである。
銕三郎は、さっそく、納戸町の広大な屋敷に於紀乃を訪(おとな)い、頼んだ。
於紀乃は、68歳にもかかわらず、膝痛のほかはしっかりしており、甥・補道あての達筆の添え状をたちまちのうちに、したためてくれた。
「銕三郎どの。探索の実(みの)りは、かならず、報らせてたもれ。面白うて、久しぶりに、なんだか、わくわくくしてきたぞえ」
歯がほとんどないふわふわ声で、つばきを飛ばしながら言った。
銕三郎は、ここでも、退屈老人を喜ばす術(て)を心得ている父・宣雄の配慮に学んだ。
【ちゅうすけ注】のち、平蔵宣以が質屋の隠居たちの老人力を活用したのも、この日の教えを生かしたともいえようか。2007年9月21日[よしの冊子(ぞうし)] (20)
銕三郎は、自分の依頼状に於紀乃叔母の添え状をつつみこみ、火盗改メ・横山同心へわたした。
盗賊探索の手だてのひとつ---という形をとり、継(つなぎ)飛脚(幕府の公用飛脚)に託すように手配してもらったのである。
その月の最初の5の日も、泊まりのお仲のところへ出かけるつもりでいたところ、前日の朝、父・宣雄に言いつかった。
「明日の夕食は、雑司ヶ谷の〔橘屋〕で摂るから、そのつもりでおるように。母もいっしょだぞ。忠兵衛どのにはすでに、通じてある」
「母上も---でございますか?」
「なんじゃ、その言い方は---銕のほうがお添えものなのじゃ」
一日、銕三郎は落ち着かなかった。
お仲を、父母に観察され、もし、
(あのおんなと、今後、一切、かかわってはならぬ)
と命じられたら、困ったことになる---と悩んだ。
お仲からは、まだ、手ほどきを受けはじめたばかりある。
剣術でいえば、竹刀のあげおろしを教わったぱかり。
これまでは荒っぽい我流にすぎず、文字どおりの独りよがりであったことを、おもいしりはじめたところなのに。
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お仲のイメージ)
免許皆伝とまではいかなくても、せめて、序二段目あたりまではすすみたい。
しかし---。
とくに、母・妙(たえ 42歳)の目が怖い。
阿記(あき 逝年25歳)に会い、その気性を認め、2人のあいだに産まれた於嘉根(かね 3歳)の、これからの身のふり方にかかわっているだけに、気になる。
(歌麿『針仕事』部分 阿記のイメージ)
(阿記は、芦ノ湯村でも筆頭の湯治宿のむすめで、おっとり・しっかりと育っていたが、お仲は、出羽の貧しい農家の子で、10代から働きづめできている---しかも、11歳も齢上---妙の目にどう映るか?)
その日が来た。
【参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8)
【参考】久三郎系統の長谷川家についての既稿分。
2006年5月22日[平蔵の次男・正以の養子先]
2006年5月23日[正以の養父]
2006年5月24日[正以の養家
2007年6月1日[田中城の攻防]
2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (4)
2007年10月11日[田中城しのぶ草] (19)
2007年10月25日[田中城しのぶ草] (23)
2008年2月28日[南本所・三ッ目へ] (6)
2008年7月4日[ちゃうすけのひとり言] (18)
2008年7月9日[宣雄に片目が入った] (5)
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