銕三郎、一番勝負(4)
「父上。お願いがございます」
下城してきた父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の8番手組頭)へ、銕三郎(てつさぶろう 23歳)があらたまって切りだした。
「火盗改メから、なにか、おとがめでもあったのか?」
「いえ、逆に褒賞をいただきました」
きょう、火盗改メ・仁賀保(にかほ)内記(のち兵庫)誠之(のぶゆき 59歳 1200石 先手・鉄砲(つつ)の15番手組頭)組の与力・津山作之進(さくのしん 52歳)から差紙(さしがみ 呼び出し状 )が銕三郎あてにきた。
【参照】2008年11月20日[仁賀保兵庫誠之(のぶゆき)]
千田恭四郎(きょうしろう 38歳)の件で確かめたいことがあるから、愛宕下神保小路の役宅まで出向くように、というのである。
千田某とは、先夜、銕三郎に斬りかかった浪人らしい。
出向いてみると、斬りあいのことを告げてやった木戸番が、横川端の牧野遠江守康満(やすみつ 信濃・小諸藩主 1万5000石)の下屋敷前の辻番へ通告し、まだ倒れていた千田某を逮捕した辻番人たちは、翌朝、仁賀保誠之の役宅へ連行したものとわかった。
仁賀保組が火盗改メを拝命してからまだ2ヶ月も経っていない。
その上、この組がこの前に火盗改メの任についていたのは40年以上も前---それも半年たらず---であったから、当時の経験者は一人も残っていない。
だから、町方が捉えた容疑者は、本役の長山百助直幡(なおはた 57歳 1350石 先手・鉄砲の4番手)組へ連れて行くようにと言った。
もっとも、本所は火盗改メ・助役(すけやく)の管轄だから、辻番人がやったことは正しい。
が、彼らは、そういう管轄の区分を心得ていて連行したわけではなかった。
辻番の前の横川から舟に乗せ、大川へ出て、浜御殿の北側から中ノ門前の入り堀の先、源助町で揚げれば、神保小路はすぐ---ということから、仁賀保屋敷を選んだにすぎない。
(愛宕下 仁賀保内記(兵庫)誠之の役宅)
本役・長山直幡の屋敷は、赤坂築地中ノ町なので、虎ノ門から坂道をえんえんと歩かないとたどりつけない。
【参照】2008年11月4日~[長山百助直幡] (1) (2)
愛宕下の組の役宅では、村山丈助(じょうすけ 36歳)同心が応対した。
事件の発端から棟(むね)撃ちで倒すまでの、ほんの1分間ほどのことをくどくどと訊かれた。
「で、相手は何者でした?」
「いや。その儀は、取調べ中につき---」
「ほう---では、田沼侯から少老へ下問していただきます」
「なに? 田沼侯とご面識がおありとな?」
「父や、お目付の佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100)どのと、しばしば、およばれを---」
「いや。それでは内密にお教え申そう。遠州・相良の浪人・千田恭四郎と自称しておるが---」
「相良藩といいますと、西城・少老時代にお役ご免となられた本多長門守忠央(ただなか 51歳=当時 1万石)侯?」
「さよう。いまの相良のご藩主は田沼侯だが---」
【参照】本多長門守忠央が罷免・封地召し上げの原因となった飛騨・郡上八幡事件は、2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)
「それが、でござる---」
村山同心が口を寄せてささやくように言った。
かすかに、煙草が臭った。
「宝暦8年(1758)に碌を離れてから、天野大蔵(だいぞう)とか申す浪人盗賊の配下となって悪事を働いていたが、頭の天野の病没によって連中が解散してからは食いつめ、闇討ち盗賊に成りはてたらしい」
【ちゅうすけ注】天野大蔵といえば、『鬼平犯科帳』文庫巻2[蛇(くちなわ)の眼]の盗賊・蛇の平十郎(へいじゅうろう)を20歳のときから盗みの道を鍛えてやった盗賊ではないか!
話を本筋へ戻して---。
銕三郎が、父・宣雄に願ったのは、なんと、屋敷の裏庭の隅に、13段の階段を設けたいということであった。
「なに、13段の階段? 銕(てつ)、まさか首を吊るつもりではなかろうな?」
【ちゅうすけの断り言】宣雄の科白は、ちゅうすけの冗談。13段は、明治以後に渡来したものだから、鬼平のころには、そういう忌みの考え方はなかった。設けたのは10段か12段のものであったろう。12段なら12支から12守神将に通じる。
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