奉行・備中守の審処(しんしょ)
月がかわり、5月になった。
奇数月は、西組が月番で、西町の奉行は、備中守宣雄(のぶお 55歳)であった
元賢(げんけん 43歳)は、六角(ろっかく)獄舎に入れられたまま、取り調べをうけていなかった。
東の奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 62歳 1000石)へ、西の長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)が親書で、息・銕三郎(てつさぶろう 28歳)に審理の手だてを教えたいので、この事件は西町奉行所のあつかいにしていただきたいと依頼したからである。
もちろん、備中守宣雄は、所司代・土井大炊頭利里(としさと)の内諾を先にとっていた。
所司代としても、寺社かかわりの事件だけに、西組があつかうほうが、筋がとおっていると判断していた。
「銕(てつ)。禁裏の不正探索のこともあるが、元賢の審問に立ちあってみないか?」
「ぜひ」
「おそらく、難儀な問答になるとおもうが、のちのちのためになろう」
銕三郎には、父の思惑(おもわく)はわかっていた。
貞妙尼(じょみょうに)への恋情はそれとして、法をあずかっている幕府方の者として公正に裁くとはどういうことかを見おぼえよ、といっているのである。
尋問部屋に引きだされても、元賢はふてぶてしい態度をくずさなかった。
5分(1.5cm)ほどにものびた頭髪と鬚のせいで、よけいに不遜に見えた。
自分は、殺してしはいない。
暁達(ぎょうたつ)が自分を非難しにき、激昂のはてに手をかけようとしたので、護身用にもってきた出刃で脅したしたところ、かまわずに飛びかかってき、自分から出刃に刺されて死んだのであるとの主張を変えなかった。
また、貞妙尼の破戒の審問の場には立ち会っていなかったから、その死にはまったく無縁であるといいぬけていた。
さらに、御用聞き・〔大文字町(だいもんじまち)〕〕の藤次(とうじ 50前)が庫裡に押しいってき、自分に縄をかけたのは違法ではないかと抗議までしていた。
たしかにご用聞きは、奉行所の与力・同心が立ちあっていないところで逮捕する権限はもっていない。
宣雄が、目付方与力・浦部源六郎(げんろくろう 51歳)と銕三郎をしたがえて、尋問部屋へあらわれた。
むしろに引きすえられている元賢の前で、宣雄たちが床机にかけた。
「あ、元賢どのに座布団をあてがうように---」
宣雄が小者にいいつけた。
小者は、かつてないことなので、逡巡している。
〔足が痛くては、答えも満足にいくまい。早う、持て」
元賢に語りかけるように、
「石抱きの拷問だと、むしろどころの痛さではすまぬ。向こうずねの骨がおれ、一生、歩くこともままならなくなる。なに、元賢どのを三角柱の上に正座させようというわけでは、いまのところは、ない」
元賢の顔色が変わり、ふてぶてしい態度が潮が退くに消えていった。(゜[石抱き]『風俗画報』)
「〔大文字町〕のが、元賢どのに縄をうったのは、これなる---」
と銕三郎(てつさぶろ 28歳)をさし、
「われの内与力が命じたことで、違法ではない」
座布団があたえられた。
元賢は、奉行に一礼してあてがった、
「富小路・五条角のきせる問屋・〔松坂屋〕の若後家とは、いつごろからの知りあいかな?」
元賢が答えをしぶった。
浦部与力が、怒鳴った。
〔お奉行にお答えいたせ」
それを制した宣雄が、お里(さと 30がらみ)が五条橋下の料亭〔ひしや〕で働いていたときに、〔松坂屋〕の主人がまだ元気だったころに、元賢どのとつれだって食事しているところを見たという者がおっての---」
「それは、4年前---
「後妻にとりもった?」
「そないなわけやおへんが---」
「お里が〔松坂屋〕へはいる前から、ちょくちょく、食事にいっていた?」
「はい、2,3度」
「あそこは川魚料理がうまいといわれておるが---」
「------」
「食ろうたな」
「------」
「仏道の戒をやぶった。ついでにきくが、お里と睦んだのは、〔松坂屋〕の主人が逝く前からであろう」
「------」
「淫戒もやぶった。しかも、後家になる前の人妻とじゃな」
「それは、奉行所にはかかわりのないことでございます」
「そうじゃな。〔松坂屋〕の亭主と本山が、成敗することじゃな」
うなだれきている元賢に、
「同じ宗派の誠心院(じょうしんいん)の庵主に言いよったのは、何回かな」
「それも、宗派内のことゆえ---」
「違うな。強要は犯罪である」
「人殺しに比すると---」
「いま、なんと申した? おぬしが人殺しなどとは、一度も申してしいない。それを自ら口にしたようたな」
はっとたじろぐ元賢を尻目に、浦部与力に、
「きょうは、これまで---獄へ戻せ」
さっと立ち、尋問部屋をでていった。
浦部与力と銕三郎もつづいたが、廊下で、
「お奉行。恐れ入りましてございます」
「浦部。不安になれば、人はおもわず、真をもらすものよ。4.,5日、ほおっておけ」
【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
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コメント
備中守宣雄奉行の緩急自在の事前吟味の手際は、銕三郎の火盗改め時代の吟味に、大いに参考になったでしょうね。
鬼平が父から学んだものが大きいと言ったわけが分かるような吟味でした。
投稿: tsuuko | 2009.11.05 09:15
>tsuuko さん
池波さんが創造なさった鬼平とは別に、史実の平蔵宣以像あります。
それと、ぼくたちは、吉右衛門さんの鬼平像もいただいています。
このブログでは、3者を組み合わせながら、当時の世態に迫ってみたいと念願しているのですが、なかなか、うまくいきません。
もっとも、多くの鬼平ファンの方々は、史実の鬼平像は親しめない---とおもっていらっしゃるのかもしれませんね。
投稿: ちゅうすけ | 2009.11.05 09:50