与板への旅(6)
与板では、南新町の〔備前屋〕善左衛門方が滞在を引き受けると、江戸家老格の西堀治右衛門(じえもん 53歳)から指示をうけていた。
領内には商人旅籠しかなく、
「長谷川うじを遇するには、あまりに粗末です。豪商の〔備前屋〕なら、それなりのもてなしをいたしましょう。何日でも、ごゆりとお過ごしください。被害を受けた店の一つでもありますから、長谷川うじがご逗留とあれば、襲ってくることもありますまい」
〔備前屋〕は、間口は5間だが奥行きが深い豪邸でもあった。
藩からの手配がゆきとどいていたらしく、奥の裏庭に面した客間があてられていた。
廻船問屋だが酒づくりもしているこの地方の名家であった。
すすめられた風呂で元結をほどいて髪を洗っていると、
「気がつきませんでした。髪結いを呼んでおきます」
振りむくと、30代半ばとおもえる優雅なおんなが脱ぎ場からのぞいていた。
「忝(かたじけな)い。長旅で汚れがひどく、苦慮しておったところです」
「お召し替えは、こちらにお揃えしておきました。洗い物はお預かりいたします」
躰を拭き、脱ぎ場へでてみると、一式、それに新品の下帯までおいてあった。
皺だらけの下帯をもっていかれたのは、いささか恥ずかしかったが、まさか、声の主が〔備前屋〕の若女将とまでは気がまわらなかった。
髪結いが髷をととのえ、月代(つきやき)と剃り、鬚をあたりおわったので払おうとしたら、
「女将さんからいただいております」
それでもまだ、おもいがいたらなかった。
黒漆塗りの懸盤膳に配した夕餉(ゆうげ)が運ばれたところで、脱ぎ場の女性(にょしょう)が召使いにちろりに銚子を持たせてあらわれ、
「〔備前屋〕江口善左衛門の女将・佐千(さち 34歳)と申します。このたびは、遠路はるばるのお運び、お疲れでございましょう。お一つ、お口よごしをお受けくださいませ」
平蔵が総朱漆の木盃に酒を注いだ。
「女将と申されたか---?」
「店主の夫を去年逝かせました。先代は数年前から躰が不自由、息子はまだ13歳で家業を継ぐわけにはまいりませんので、おんなだてらに、せんかたなく、番頭たちに支えられて家業をまもっております」
木盃を盃洗で清め、
「返杯を---」
銚子をとってすすめた。
(こんなごたいそうな酒器でなく、里貴(りき 37歳)のところでやるように、片口で茶碗酒のほうが気がおけないのだが---)
「うちで醸造(つく)っております酒の〔黒川〕は、お口にあいましたか? 深秋でなく、春先ですと新酒をおめしあがっていただけるのですが---」
「いや。甘露(かんろ)です」
「甘口でよろしかったのでしょうか? 辛口の〔城山(しろやま)というのも醸造(つく)っております」
「黒に、白か---できすぎ」
佐千が笑いころげだ。
笑うと、切れ長の目尻が下がり、とたんに色気がこぼれる。
そのことを佐千もこころえていた。
「あの、〔しろやま〕はお城の山と書きます。〔じょうざん〕と読むのがほんとうなのですが---」
「女将の名を〔させん〕と読むようなものですかな」
「あら---与板ことばですと、否(いいえ)になります」
「失言。明日の夕餉には、その〔じょうざん〕を賞味させいただこうか?」
「今宵にも---」
「え---?」
「あの---〔じょうざん〕のご賞味のことでございますが---」
目元を赤らめた佐千が、あわてていいわけした。
(いかん! 男とおんなのあいだは、ちょっとした言葉の行きちがいでひょんなことになってしまうものだ。ましてや佐千は、熟れきった後家だ。拙は旅の身。[賞味]という言葉の誤解をなんとか、打ち消しておかぬと---)
佐千のほうもそう判じたのであろう、
「〔じょうざん〕のお燗をいいつけてまいります」
ゆっくりと立ったが、足はこびがいささかぎこちなくなっていた。
【参照】201135~[与市への旅] (1) (2) (3) (4) (5) (7) 8 (9) ((10)) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19)
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コメント
平蔵さん、もてすぎ!
投稿: mine | 2011.03.10 10:41
>mine さん
平蔵の時代の武家のセックス観を、現代の道徳観や法律で計ってはいけないとおもいますが、それにしても、男女の間柄は、いまも昔も、ちょっとしたきっかけが起爆剤になりうるのではないでしょうか。
投稿: ちゅうすけ | 2011.03.10 14:24