火盗改メ・堀 帯刀秀隆
「深川の茶寮〔季四〕でともおもいましたが、助役(すけやく)・堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)どのは小川町裏猿楽町、増役(ましやく)になられた建部(たけべ)甚右衛門広殷((ひろかず 54歳 1000石)どのは四谷南伊賀町ゆえ、あいも変わりばえせぬが、飯田町中坂下の〔美濃屋〕にいたしました」
火盗改メ本役・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 41歳 300石)からの誘いが、丁寧な添え状つきできた。
堀 帯刀秀隆に火盗改メ・助役が発令されたのは、1ヶ月半ほど前の10月13日であるし、建部甚右衛門広般の一昨年の冬場の助役につづいて2度目は今年の1月24日から半年、そしてこの11月9日に増役に命じられているから、それぞれが本役へのあいさつの招待は終っているはずである。
(ということは、贄 壱岐側の返礼の席であろう。そのような宴席へお招きくださるとは、あまりにも念のいったおこころ遣い---)
平蔵(へいぞう 36歳)は、贄 正寿の人柄にあらためて感服した。
幼少のころ、現将軍・家治(いえはる 45歳)の伽役にも選抜された贄 壱岐であるから、いまでもときどき清談に伺候しているにちがいない。
このたびの与板藩主・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 35歳 西丸若年寄)の領内で、平蔵が構じてきた盗賊・〔馬越(まごし)〕の仁兵衛(にへえ)の風聞のみによる追いはらいの奇策も、将軍の耳に入れているかもしれない。
【参照】2011年3月5日~[与板への旅] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19)
宴席で紹介された堀 秀隆は、色黒のずんぐりした体躯で、齢に似合わず声が甲高く、
「目黒・行人坂の放火犯人を逮捕なされた長谷川備中(守宣雄 のぶお 享年55歳)どのご子息とな。あの大火では拙屋敷も類焼したゆえ、留飲がさがり申した」
役職にある身で、個人の事情にことよせての話し方に、平蔵は一抹の危惧をおぼえた。
このときの平蔵の直感は、その後、堀 秀隆が火盗改メ・本役として再任された下で助役を勤めて的中したが、これは5年後のことであった。
【ちゅうすけの失策】平蔵の見た堀秀隆像はともかくとして、ちゅうすけとして、堀 帯刀秀隆に謝らなければならない発見をした。
この夕べ、中坂下の〔美濃屋〕へ現れたときの堀 秀隆は、先手・鉄砲(つつ)の第16の組の組頭に同年(1781)8月20日に目付から昇格したばかり、ほやほやの湯気がたっているといってもいいくらいの組頭であった。
鉄砲(つつ)の第16の組は、別名・駿河組の称もある歴史のある一団で、与力はほかと同じ10名であるが、同心が50名配されている。
当ブログをかねてからお目とおしいただきご記憶の篤い方は、先手・鉄砲第16の組の組頭といえば平蔵の亡父・宣雄の盟友でもあった本多采女紀品(のりただ 67歳=天明元年 隠居中)が6代前の組頭であったことをおもいだされよう。
いや、堀 秀隆は、由緒のあるこの先手・鉄砲の第16の組から、4年後の天明5年(1785)11月に、先手・弓の第7の組頭へ組替えした理由を、「よしの冊子」の報告書を信用して紹介してしまったことがあった。
『よしの冊子』は、堀の組替えは、弓の第7の与力・同心が身銭をだしあって80両の賄賂をつくり、火盗改メであった堀 秀隆の用人へ贈って成功実現したように書いていた。
与力・同心の狙いは、火盗改メ手当てであったと。
たしかに、弓の第7の組は、長谷川太郎兵衛正直の3度、そのあとの横田源太郎松房(としふさ)の火盗改メ、就任で役手当てのおいしさの味をしっていた。
【参照】2007年9月2日[隠密、はびこる]
2007年8月29日[堀 帯刀秀隆]
2006年4月19日[堀 帯刀の家系と職歴]
しかし、『柳営補任』を調べてみると、堀帯刀秀隆の弓の第7の組への組替えは、
天明5年11月15日河野勝左衛門と組替え、火附盗賊改加役
組替えが先で、火盗改メの拝命はそれにつれてのものであった。
つまり、与力・同心たちが集金したというのは虚報ということになる。
ことほどに、『よしの冊子』の記述の精度には要注意である。
これで、堀秀隆への冤罪はそそげたであろうか。
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