田中城しのぶ草(16)
大久保99家、本多100家と一口にいう。
そうはいっても、歴史に顔をだす大久保家は、宇左衛門忠茂(ただしげ)の次男・五郎右衛門忠俊(ただとし)系と、3男・平右衛門忠員(ただかず)系と、大雑把にみておけばよかろうか。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)が手紙を書いたのは、忠俊(ただとし)系から別家した荒之助忠与(ただとも)へあててだった。
忠員系では、武将としても幕閣としても名をなした七郎右衛門忠世(ただよ)と4弟で『三河物語』を書いた彦左衛門忠教(ただたか)、そして忠世の嫡子・相模守忠隣(ただちか)がいる。
本多佐渡守正信(まさのぶ)の策謀によって失脚したのが忠隣である。
(大久保家の家紋=揚藤の内の大文字)
もちろん、正信の本多家は、上野介正純(まさずみ)の代に絶えているし、田中城の前城主・因幡守正珍(まさよし)の本多家とは直接にはつながらない。
宣雄は、そこのところを意識しながら、田中城ゆかりの末裔の方々を、因幡守正珍侯が個人的に招いて一夕を語りあいたいと考えておられるが、ご参席いただけるかと問い合わせ、趣旨をさらにお確かめになりたいということであれば参上するにやぶさかではない、とつけ加えた。
この宝暦9年(1759)、大久保荒之助は48歳。
忠与からは、しばらく返書がこなかった。大久保一門のあちらこちらに相談しているのだろうと、宣雄は推察した。
じっと待った。
むしろ、忠与がより多くの大久保家に意見を求めてくれれば、それだけ、長谷川の名前がひろまるというもの。
結果、参席しないといってきても、どうということはない。
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
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