〔蓑火(みのひ)〕のお頭(2)
「分際(ぶんざい)も忘れて、〔蓑火(みのひ)〕のお頭(45歳)と、〔夜兎(ようさぎ)〕のお頭(53歳)を、つい、比べっちめえましたが、これは、酒の味を比べるようなもんで、甘口ごのみの人もいれば、辛口でなけりゃあというご仁もおいででやす。〔蓑火〕のお頭をたとえれば甘口、対する〔夜兎〕のお頭は辛口でしょうか。人が寄るのは〔蓑火〕のお頭のほうでやす」
八ッ半(午後3時)といえば、〔盗人酒場〕の亭主・〔鶴(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)は夜の酒客の仕込み前で、手がすいていたからか、いつになく饒舌であった。
独りむすめのおまさ(11歳)が側で聞き耳をたてているのも気にしていない。
〔蓑火〕の喜之助の配下には、手練(てだ)れの小頭(こがしら)が3人いるとも洩らした。
筆頭は、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 29歳)どんという、6尺(180cm)近い大男。
(このときおまさは、20数年後に、この〔大滝)の五郎蔵と結ばれることになろうとは、つゆ、おもわないで、父・忠助の話を聞き流していた)。
〔蓑火〕のお頭が5尺2寸(155cm前後)と小柄なだけに、五郎蔵どんは目立つ。
五郎蔵どんの出身は、秩父(ちちぶ)の大滝村と聞いたこともあるような気もするが、表向きは、近江国犬上郡(いぬがみこうり)の大滝村と。
上総国(かずさのくに)夷隅郡)(いすみこうり)下大多喜(しもおおたき)村という人もいる。
2番手の小頭が〔五井(ごい)の亀吉(かめきち 28歳)どん。
上総国市原郡(いちはらこうり)五井の生まれ。
五郎蔵どんが無口でやや辛口なのに対して、口がまわり気もよくまわるやや甘口。
3番手が〔尻毛(しりげ)〕の長吉(ちょうきち 27歳)どん。美濃国(みののくに)方県郡(かたがたこうり)尻毛(しっけ)村の出なのだが、毛むくじゃらで、尻の穴まで毛でおおわれているというので、長吉の名とあわせて、みんなから、「尻毛」を「しっけ」でなく「しりげ」と呼ぱれてまった。
「〔尻毛〕とは、おもしろい」
「長吉どんの引きで、〔蓑火〕一味に入った〔酒々井(しすい)〕の市之助(いちのすけ 33歳)というのが同郷の若者で、一味の人たちの話をよくきいたものです」
【ちゅうすけ注】忠助が上総国印旛郡(いんばこうり)酒々井の生まれであることは、2008年5月3日[〔盗人酒屋〕の忠助] (5)
2008年5月8日[おまさの少女時代〕 (3)
〔酒々井(しすい)〕の市之助は『鬼平犯科帳』文庫巻14[尻毛の長右衛門]p58 新装版p60
【参考】酒々井町Wikipedia
「毛むくじゃらの〔尻毛〕の長吉---あの男かな。もちろん、尻の毛は見てはいませぬが---」
「ほう。お会いになりやしたか?」
「夏のはじまりのころ、箱根・芦ノ湯村へ行ったとき---」
「阿記(あき)お姉(ねえ)さんが亡くなったときですね」
おまさ が脇から口をはさんで、忠助ににらまれた。
「忠どんの話をきいて、いまおもいあたったのですが、多摩川の六郷の渡し舟で、煙草をすすめたくれた仁が、〔蓑火〕の頭だったようです。供は、指の背にまでむしゃむしゃと毛が生えていたから、あれが、〔尻毛〕の長吉だったのかも」
(六郷の渡し場 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
【参照】2008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎] (9)
「〔蓑火〕とおもわれるご仁は、人のこころを繭綿でつつみこむような人柄でした」
「それそれ。配下の荒くれ連中が、この人のためなら命を投げ出しても---とおもうらしいんで」
「上に立つ者の、徳の一つです」
〔蓑火〕の喜之助には、あまり知られていないが、いい軍者(ぐんしゃ)が2人、ついているのだそうな。
どちらも「通り名」に「畑」の字があるので、〔蓑火〕の2反田(にたんぼ)と呼ばれている。
男のほうは40歳、喜之助と同郷で、上田の神畑(かばたけ)村(現・長野県上田市神畑)の大庄屋の妾が産んだ子で、田兵衛(でんべえ)---いいかげんな名をつけられたものである。
(信州・上田在 神畑=青〇 明治20年ころ)
おんなのほうは甲州・八代郡(やつしろこうり)中道ぞいの中畑(なかばたけ)村(現・山梨県甲府市中畑)の木こりのむすめ---〔中畑〕のお竜(りょう 28歳)。
(甲府市中畑=青〇 明治20年ころ)
中畑は、2006年2月28日まで東八代郡中道町内にあった。
中道町
田兵衛が火で、お竜が水とも、たとえられている。
とびぬけた美貌のお竜は、じつは男いらず---つまり、おんな同士で睦みあう変わり者なのである。(絵は歌麿『婦人相学十躰』部分 お竜のイメージ)
火と水の軍者が編みだした案から、〔蓑火〕が選びとるので、ほとんど、狂わないのだと。
以前に軍者をつとめていた〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへい 50すぎ)が、新興の〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ 40すぎ)に乞われて去ったあとを、「2反田」がたちまちにうめた。
軍者は、若いほど、時代を見抜く目があり、新手をかんがえだすものである。
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