奉行・備中守の審処(しんしょ)(2)
この夏、8月16日~21日の6日間、筆休みの夏休みのつもりで、30回以上にわたってアップしていた史料『よしの冊子』を、下の↓【参照】のごとくに連結しなおし、6日分にまとめた。
手間がはぶけて、するすると読めるようなったはず。
もっとも、その分、1回iに目を通す量はふえはしたが--(ブログは本来的には日記だから、長い文章は読み手に負担であるが、これは鬼平ファンには有用な史料だから、時間のあるときにじっくりと読んでいただきたい)。
【参照】2009年8月15日~[よしの冊子 (まとめ篇)] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
上の↑ (まとめ篇 (2))の寛政元年9月9日の末尾近くに、
一. 長谷川平蔵は、なるほど盗賊を捕らえることにかけては名人のよし。長谷川は父の平蔵が本役をしていた時も用人のような格好であちこち探索に廻っていたとのこと。
また父親が大坂町奉行(? 京都の勘違い)になった時も用人役を勤め、吟味などもして馴れているので、真相を探りだすことがはなはだ巧みで、おれほど上手はあるまいと自慢しているとも。
とあり、以下のような解説ょ加えている。
【ちゅうすけ注:】
父・宣雄が火盗改メの助役を命じられたのは、明和8年(1771)
10月17日53歳のとき。
本役の中野監物清方(きよかた 廩米300俵)が翌年の3月4
日に病死(50歳)したので、後釜として助役の宣雄へただちに
本役を発令。
幕府のこうした緊急処置は、その6日前に江戸市中の半分近くが
焼けてしまった〔行人坂の火事〕の放火犯を至急に逮捕する必要
があったからだ。
その放火犯を宣雄の組(先手弓の第8組)がめで
たく逮捕し、その報償として、宣雄は京都西町奉
行へ栄転した。
『よしの册子』が大坂町奉行と報告しているのはまちがい。
宣雄が火盗改メや京都町奉行をしているとき、平蔵は26歳か
ら28歳で、立派に助手がつとまった。
上の【注】によるまでもなく、進行中のストーリーでお分かりのように、リンチで貞妙尼(じょみょうに)を責めて死にいたらしめた事件でも、銕三郎個人(てつさぶろう 28歳)の私情はさておいて、探索の主たる狙いを、父・宣雄奉行の判断の資をあつめることに置いている。
しかも、町奉行所の与力・同心およびその下役のご用聞きの手がおよばない風評あつめに専心している。
いわゆる、傍証がためと、心象づくりである
宣雄町奉行も、そのことはきちんとわきまえており、職務権限をもっていない銕組(てつぐみ)には、過度の任務は課さないようにしながら、銕三郎(てつさぶろう 28歳)を教育している。
[銕三郎、膺懲(ようちょう)す]2009年10月29日~(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
| 固定リンク
「003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事
- 備中守宣雄、着任(6)(2009.09.07)
- 目黒・行人坂の大火と長谷川組(2)(2009.07.03)
- 田中城の攻防(3)(2007.06.03)
- 平蔵宣雄の後ろ楯(13)(2008.06.28)
- 養女のすすめ(10)(2007.10.23)
コメント
「よしの冊子」をまとめていただいたので、何回も読み返しています。
もちろん、ちゅうすけさんがおっしゃるように、徒目付や小人目付といった身分の低い人たちの視線で平蔵をみているし、権力者への思惑もあるようですが、そけらの報告書からもれてくる平蔵の力量の評価もあり、同時代の史料としては、けっこうおもしろく、自分なりの平蔵像が描けて、有用です。
投稿: 左衛門佐 | 2009.11.06 05:59
>左衛門左 さん
『よしの冊子』は不思議な運命を持っている資料なのです。
もちろん、端緒は、松平定信が一ツ橋治斉の後押しで老中首座についたとき、学問友達でもあり側近であった水野為長がさっそくに内閣情報室長気取りで、隠密を各所に放って裏情報をあつめたのです。
定信のために裏情報を---といったわけで、いまの民主党の「国民の声を」に似ていましたろうか。
それが、(久松)松平家の奥深く厳秘で保管されていました。
桑名藩の家老が、のちのちのことをおもんぱかって、抜粋筆写されたのが、『鬼平犯科帳』の連載終了間近にやっと活字化刊行されたのです。
これを読むと、長谷川平蔵の一面がくっきりうかびあがります、もちろん、当初のものは定信派寄りの評価ですが。
池波さんが、もし、連載前に読むことができていたら、もうすこし違った、田沼よりの鬼平像になったのではなかろうかと、推察しているのですが---。
投稿: ちゅうすけ | 2009.11.07 06:20