田中城しのぶ草(14)
長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、嫡子・銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が駿州・田中城下へ定番(じょうばん)調べに行っているあいだに、すでに判明している分だけでも進めておこうと考えた。
まず、銕三郎が学塾仲間の大久保甚太郎(じんたろう)からその史実を聞いたという、祖・大久保甚左衛門忠直(ただなお)のことをあたってみることにした。
書物奉行のところで調べることをおもいつき、知り合いを反芻して、中根伝左衛門へ行きついた。伝左衛門は、昨宝暦8年(11757)正月まで西丸の新番組の番士だったので、書院番士だった宣雄は、行きあうと目礼を交わしていた。
というより、家禄は稟米200俵と微禄だったが、年齢が20ほども伝左衛門が上だったので、宣雄のほうから先に礼をしたことから、目礼の交換がはじまったのである。
紅葉山の書物奉行所を訪ねると、伝左衛門は、黒い小さな顔いっぱいの笑顔で迎えてくれた。
「長谷川どののご来訪とは、存外々々」
「中根どのお力をお借りしなければ、考えが進まなくなりまして、参上いたしました」
「ほう、何事でござるかな」
「もし、お役目にさしさわりがなければ、駿州・田中城に定番がおかれた期間をお教えねがえれば---」
「お安いこと。ほかにも何か?」
「できれば、寛永諸家系図伝の、あるご仁の分を拝観させていただければ、ありがたき幸せ」
ここは、江戸城の中でも、本城からすこし距離をおいた紅葉山の一郭にある。火事による類焼を避けているのだ。
もちろん、火の気は禁物。
だから、煙草をたしなむ者は勤まらない。
中食のときのお茶も、本城から薬缶で運んでくる。
中根伝左衛門が奥へ入って同心に調べさせてくれたところによると、田中城は、
家康が府中に在城したあと、
紀伊へ移封された徳川頼宣が駿河を領していた慶長14年(1609)からと、
元和5年(1617)から幕領、
駿河大納言忠長が領した寛永2年(1625)から、
忠長が高崎へ幽閉されたあと、寛永8年(1633)から寛永10年まで。
「で、寛永諸家系図伝の、あるご仁とは?」
「元和5年から定番をなされた、大久保どのでござるが---」
「後日、写しをお手元へおとどけするということでは、いかがでござるかな」
「かたじけなく---」
翌日にとどけられた寛永諸家系図伝の大久保忠直と、その息・荒之助忠当(ただまさ)の家譜は、『寛政譜』とほとんど差がないので、ここでは後者を掲げる。
『寛政譜』にあって『寛永譜』にないのは、忠直が家康から疵薬を下賜された件のみといってよい。
ちなみに、忠直が田中城攻めで疵を負ったのは23歳のとき。
田中城の定番を発令されたのは69歳のとき。
忠当が父の定番を助(す)けたのは29歳のとき。
ついでなので、当代の大久保荒之助(のち土佐守)忠与(ただとも)の分も掲げておく。
宣雄とこの仁との交渉の顛末はのちほど。
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
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コメント
ちなみに、中根伝左衛門は、稟米200俵、お目得以下の家格なので、『寛政重修諸家譜』には載っていません。
彼が書物奉行であることは、『柳営補任』に乗っていますが諱は書かれていません。
投稿: ちゅうすけ | 2007.07.03 15:50