お逢対の日
「それで、小姓番組と書院番組とでは、どちらをお望みかな?」
抜けている前歯2、3本のあいだから息がもれるので、小普請支配・長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)の言葉は馴れないと聞きとりにくい。
安永2年(1773)9月19日。
月に3日ある小普請支配の、組子との逢対日で、長谷川平蔵(へいぞう 28歳)にとっては、小普請入りして初めての、御茶ノ水の,上水樋東詰、建部坂上の長田邸の書院である。
小普請入りといっても、平蔵の場合は、役目上の過失があって無役に落ちたからではなく、跡目相続が公式に認められたあと、出仕するまでの仮の待命期間だけの小普請身分である。
支配も、長谷川家が家禄は400石と高くはないが、書院番士と小姓番組入りの資格のある両番の家柄であることをふまえた上での応対をしている。
「できますれば、西ノ丸の書院番4の番頭の水谷(みずのや)伊勢(守勝久 かつひさ 51歳 3500石)さまの組に欠員がでましたら、お願いしとうございます」
伊勢守勝久は、3年前に小姓組の番頭から西ノ丸の4の組の書院番頭に転じていた。
平蔵が希望を述べると、長田支配はかたわらの書役に書き留めを顎で合図し、
「伊勢どのにこだわる理由(わけ)は?」
訊かれた平蔵は、亡父・備中守宣雄(のぷお 享年55歳)を産んだのが、備中国松山藩の100石の元藩士のむすめであったことを告げた。
【参照】2006年11月8日[宣雄の実父・実母]
2007年4月12日~[寛政重修諸家譜] (7) (8) (15) (17)
2007年5月22日~[平蔵宣雄の『論語』学習] (1) (2) (A)
5万石の小藩で100石を給されていれば、30万石の藩であれば600石、いや、800石にも相当する。
長田支配が、役柄は? と問うた。
「馬廻役だったそうです」
「ふーむ」
馬回役といえば、藩主の親衛隊である。
それが、藩主の世継ぎの手つづきの手違いから絶藩となり、藩士のほとんどが失職し、処士となった。
100石という高禄が再就職の重荷となったことは、長田支配にもよくわかる。
水谷伊勢守は、断絶された松山藩主の数代後裔であった。
家康に対して、豊臣方の情報を報せた功に免じて---との口実で、藩主は3000石(のちに500石加増)の幕臣となった経緯は長田支配も心得ていた。
「それだけではないのです。伊勢守さまのご養子・兵庫勝政(かつまさ)さまと、初見がいっしょでした。
「それは、ご縁---」
【参照】2008年12月5日[初お目見] (3)
2009年5月12日[初お目見の数] (1) (2) (3) (4) (5)
わかった、とうなずいた元鋪は、柳営で伊勢さまにお会いしたら、そこもとのことを耳うちしておこうと言ったあとで、
「西ノ丸の書院番の4の組の与(くみ 組頭)は、たしか1年前に、牟礼(むれい)郷右衛門(勝孟 かつたけ 53歳 800俵)どのに代ったはず。辞を通じておくがよろしい」
「牟礼さまと申しますと、ご先代が葛貞(かつさだ)さまと申された---?」
「故・清左衛門どのをご存じかな?」
「いいえ、拙は----。父の従兄---わが家の6代目が西の小姓組に出仕しておりました節、与頭をしておられたように聞いております」
【参照】2007年5月2日[『柳営補任』の誤植]
「それは重畳。当方の与頭・朝比奈(織部昌章 まさあき 54歳 500石)から意を伝えさせておくから、なるべ゜く早く辞を通じておきなされ」
親切:げにすすめたものの、何より肝心なのは、水谷どのに、この若者を引きとる気がありやなしやだな---内心ではおもっていた。
なに、平蔵のほうだって、亡父・宣雄から、役人というものは、名刺と顔つなぎの世界であるから、ムダ弾とわかっていても、撃っておけ---と教えられていた。
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ページ・ヴューが500,000アクセスを通過するのは、
1月23日 正午すぎ
と予測できるところまできました。
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きのう、週刊『池波正太郎の世界 5』[雲霧仁左衛門]がおくられてきた。感謝。
平凡社の東洋文庫『大岡政談 2』(1984.12.10)の[雲切仁左衛門]と、あまりにもちがっているので、池波さんの空想力におどろいた記憶がある。
小説『雲霧仁左衛門』は、雲霧と火盗改メの安部式部信旨(のぶむね 48~56歳 1000石)との知恵くらべの物語である。
安部一門からは、もう1人、火盗改メに就いている。兵庫信盈(のぶみつ 1500石)で、銕三郎宣以がほんのすこしかかわりあった。
【参照】2009年12月11日[赤井越前守忠晶(ただあきら)] (2)
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