豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(9)
佳慈(かじ 31歳)の部屋は、短い渡り廊下の先にあった。
艶(なまめ)かしい彩(いろど)りの調度を予想していたが、はずれた。
素朴な箪笥類に山水の墨絵の屏風があるだけであった。
香木を焚いたなごりがかすかに匂っていた。
「色めいたものが嫌いなのです」
黒っぽい着物の佳慈がにこやかにいった。
「幼な君さま附(つ)きの小納戸頭取(とうどり)どのにお会いなされましたか?」
手はすばやく酒をすすめていた。
「辞去なさる前の森川甲斐(守 俊顕としあき 57歳 600石)どのに---」
「新見(しんみ)豊前(守 正則 まさのり 54歳 700石)さまには---?」
「お部屋ではお見かけしませなんだ」
「ひと足先にお発(た)ちになったのかしら。でも、なぜ---?」
「は---?」
「新見頭取さまのご内室が、こちらの殿のお妹ごということはご存じでございましょう?」
「いかにも---」
「あらためてお引きあわせになるとばかり、おもっておりました」
盃を持ったまま小首をかしげ、思案顔の佳慈は、いかにもこころえた年増ぶりで艶っぽかった。
まわりを素(す)に近くしている分、色気がきわだった。
「話題は、新見どのではなく、太田備後(守 資愛 すけよし 46歳 掛川藩主 5万石余)さまではなかったのですか?」
平蔵(へいぞう 36歳)は本題をいそいだ。
その前に、このたび、西丸の若年寄へ帰任なされた鳥居丹波守忠意(ただおき 65歳 壬生藩主 3万石)とはいかなるかかわりか、訊かれた。
城下の壬生寺(にんしょうじ)の身代わり地蔵の盗難の一件を話すと、佳慈は膝をうち、
「掛川侯は、壬生侯から何かのときにその話をお耳になさり、長谷川さまに興味をおもちになったのですね」
【参照】2010年9月2日~[〔七ッ石(ななついし)〕の豊次] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
2010年10月7日~ [鳥居丹波守忠意(ただおき)] (1) (2) (3)
太田備後守が、身代わり地蔵盗難を解いた平蔵に興味をしめしたのは、掛川藩・の前の藩主・小笠原能登守長恭(ながゆき 8歳=当時)が、陸奥棚倉へ転封になったのは、日本左衛門の跳梁を見逃していたからとの風評があった。
2008年7月5日[宣雄に片目が入った] (1)
そんなことで転封されてはたまらないと、館林から移った太田家は、盗賊の取り締まりに力を入れていたのであった。
(番頭・水谷(みずのや)出羽守に儒学好きとおどされたが、盗賊のことなら軽い、かるい)
胸のうちで安堵のため息をもらした。
それとともに、1件落着後、肴(さかな)町の料亭〔花鳥(かちょう)〕でも慰労してくれた掛川藩の町奉行所の与力・町井彦左衛門(ひこざえもん 45歳)の油ぎった顔がぼんやりとうかんだ。
あれは、12年も前のことであった。
【参照】2009年1月23日[銕三郎、掛川で] (3)
平蔵が、
「相良侯は、太田備後(守)さまから、なにを学べと---?」
瞶(み)つめられた佳慈が笑った。
「里貴(りき 37歳)さまは、なんとおささやきになりました?」
目元に笑いがのこっていた。
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コメント
田沼意次と一橋冶済権力闘争といいますか、政治的暗闘が、手にとるようにわかります。おもしろい。
投稿: 文配りの丈太 | 2011.02.23 09:36