田中城しのぶ草(4)
夕餉(ゆうげ)の酒をほどほどにきりあげた長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、書院へもどり、息・銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が書き出してきた名簿を、ふたたび、披(ひら)いた。
喉にひっかかった魚の小骨のように、食事中から気にかかっていた酒井河内守忠佳(ただよし)に視線をくぎづけにしている。
74歳。5000石。享保12年(1724)からずっと大番頭。35年にもおよぶ。それも偏屈のせいと聞いている。そのせいで、小さな波風が周囲に絶えない。
(この仁は、本多侯のためにならない)
宣雄は、そうきめた。
いまは5000石の大身幕臣だが、田中城主だった先代・日向守忠能(ただよし)侯は、4万石の身代を棒にふった---というより、政敵(将軍・綱吉の側近たち)にはめられた、といえよう。
日向守忠能侯は、徳川の重臣である酒井本家・雅楽頭(うたのかみ)忠世(ただよ)の孫である。父は阿波守忠行(ただゆき)。
池波正太郎さんの直木賞受賞作[錯乱(さくにらん)]で、真田藩に潜入した隠密の密書を受け取った酒井忠清(ただきよ)は、忠能の兄である。
その忠能が4万石を棒にふらされた理由というのが、いま考えると、どうにも合点がいかない。陰謀としかいいようがない。あるいは、忠能の偏屈ぶりが、よほど周囲に煙ったがられていたか。
忠能には本家の甥にあたる忠挙(ただおき)が、承応2年(1653)から寛文6年(1666)の老中在任中の亡父・忠清に落ち度があったということで、16年後の天和元年(1681)12月にとがめられた。
結果は、忠清はその年の5月に故人となっており、忠挙自身はあずかりしらなかったとていうことで、なんのことはない、一件落着。
ところが、とばっちりを忠能がかぶった。
本家の忠挙が吟味を受けているのに、忠能は参府して進退をうかがうべきなのに、のうのうと在国していたのは不謹慎でけしからぬ---と、田中藩を収公の上、井伊家に預けられた。その後ゆされたが、身分は5000石の幕臣。
そういうことから、酒井家は、田中城にいい思い出を持っていまい。
当主の日向守忠佳は、中奥の小姓にえらばれるほどの美少年であったが、気性がよろしからずということで、早々に表の小姓番組へまわされたとのうわさも、宣雄は耳にしている。
74歳のいまは、さすがの美貌も皺に覆われ、せっかくの面高顔が、かえって冷酷な印象を与えている。
とにかく、偏屈では、近寄らないほうが無難である。
酒井忠能家の『寛政譜』を掲げる。
忠能は、田中藩主時代に収公され、井伊家へ10年近くお預け。
その後、5000石の幕臣に。
忠能の継嗣・忠佳の譜。
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
| 固定リンク
「090田中城かかわり」カテゴリの記事
- 田中城しのぶ草(11)(2007.06.29)
- 田中城ニノ丸(3)(2008.12.28)
- 田中城ニノ丸(2008.12.26)
- 田中城ニノ丸(4)(2008.12.29)
- 田中城ニノ丸(5)(2008.12.30)
コメント
酒井日向守忠能が、不謹慎という口実のもとに、預けられた先を、『寛政譜』は彦根城主の井伊掃部頭(かもんんのかみ)直該(なおもり)としている。
『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)は、彦根城主の井伊掃部頭(かもんんのかみ)直興(なおおき)としているが、どちらも、『寛政譜』の井伊家の項には見当たらない。
また、『市史』は、「兄忠清の子忠挙が勘気を蒙った時、忠能は篭居の身でありながら、憚りなく江戸に来たばかりでなく、領内の治績もよくない」から収公されたとしているが、これも『寛政譜』と合致しない。
どういう史料によつたのであろうか?
投稿: ちゅうすけ | 2007.06.22 12:27
井伊家の家系図、及び徳川幕府の大老を調べましたところ、井伊家5代,8代の当主が井伊直該です。
跡目の6代、7代が若くして亡くなっています。
さらに検索の結果、井伊掃部頭直興が改名して、井伊掃部頭直該になっていました。
1676(延宝4) 直興(21)井伊家相続
1697(元禄10) 大老
1700(元禄13) 大老免
1701(元禄14) 隠居
1710(宝永7) 直該(直興改め)再襲封
1711(正徳1) 再び大老
1714(正徳4) 隠居
1717(享保2) 卒(62)
酒井日向守忠能が彦根に幽閉されたのが「寛政譜』によれば天和元年(1681)ですから、彦根城主は井伊掃部頭直興(改名後直該)に当てはまるようです。
投稿: みやこのお豊 | 2007.06.22 23:42
>みやこのお豊さん
井伊直該の件、ありがとうございました。
ところで、お調べいただいた史料には、直該にどうルビをふっていましたか?
「該」の読み方がわからなくて。
投稿: ちゅうすけ | 2007.06.23 05:45
今回以前彦根城を訪れた時の資料など数多く調べました。ルビのあるものが少なかったのですが、ふってあるものは(なおもり)でした。
投稿: みやこのお豊 | 2007.06.23 07:01