ちゅうすけのひとり言(17)
『鬼平犯科帳』のブロガー(ブログ立ち上げ人)として、三方ヶ原の戦死者にこだわっている理由は、大ざっぱにいって、2つある。
まずは、徳川方の新参武将としてこの合戦で戦死した、祖・紀伊守(きのかみ 37歳=討死時)正長(まさなが)の奮戦ぶりがうかがえる史料を求めていること。
討死したのは、緒戦だったのか、混戦時だったのか。弟・藤九郎(19歳 討死)や郎党はその時どこにいたのか。
つぎは、三方ヶ原の戦死者の遺族たちのその後のあつかいに過不足はなかったか。
新参というだけで、正長兄弟の遺族への報いが軽んじられてはいないか。
【参照】Wikpedia [三方ヶ原の戦い]
元亀3年(1572)12月22日。
2万余の武田方、対する8000の徳川軍は鶴翼(かくよく)の陣形をとったとされている。
鶴が翼をひろげたのに似た、薄く浅い配陣である。
池波さん『夜の戦士 下』(角川文庫 1976.5.10)p288 は、
(武田方の物見)坂部(七十郎)の探り見たところによると徳川軍の陣立は次のようなものであった。
右 翼 酒井忠次
中 央 石川数正
左 翼 本多忠勝・平手汎秀・佐久間信蔵(平手と佐久間
の部隊は、織田信長からの援軍である)
そして、この左翼の後方に、大将・家康をかこむ旗本と、これに従う部隊がかためているというのである。
【ちゅうすけ注】池波さんのこの記述は、徳川軍側からみての右翼・左翼である。
武田方から見ると、左右が逆になる。
池波さんが、浜松側から見た左右を書いているのは、徳川時代に描かれた合戦図のほとんどが、徳川方の目線に従っているからであろう。
最近の研究をまとめた本などは、
右翼 酒井忠次
その左 織田援軍
小笠原長忠
中央 石川数正
その後方 家康と旗本
その左 本多忠勝
榊原康政
最左翼 大久保忠世
いずれにしても、薄く浅い布陣であることは変わりない。
2年前、今川勢の一員として駿河国田中城を300人余で守っていた長谷川紀伊守が、攻め寄せた武田の大軍に、衆寡敵せずと、城を去って浜松へ走り、徳川家康の傘下に入ったとき、だれを頼ったかも史書は伝えていない。
竹千代時代の家康が駿府に人質になっていた時の従者の顔見知りということで、菅沼定秀(さだひで)、榊原忠政(ただまさ)、野々山元政(もとまさ)らのうちの誰かからの口ききがあったとしても、三方ヶ原のような大戦の場合は、石川数正(かずまさ)か本多忠勝(ただかず)に配されたともおもえる。
ま、その探求は今後の課題として、きょうのひとり言は、[ひとり言] (16)に記した、中根平左衛門正照(まさてる)についてである。
彼は、先記したように、天竜川ぞいの堅城・二股城の守将の一人であった。
『寛政譜』はこう書いている。
東照宮につかえたてまつり、松平善兵衛康安、青木又四郎某らとおなじく遠江国二股城を守る。
元亀三年十月、武田勝頼および左馬助信豊、穴山梅雪ら、兵をひきゐてかの城を攻める。
正照よくこれを防ぐといえども、信豊・梅雪が謀によりて城中水つき飢渇におよびしかば、やむことを得ずして城をあけわたし浜松に帰る。
(二股城址 木立の向こうは絶壁と天竜川)
(二股城址の丘よりやや下手の天竜川)
(つづき)十二月二十二日、三方ヶ原合戦の時、さきに二股城の守りを失ひしことを恥じ、又四郎某と共にその一族家臣らをひきゐ、敵中にはせ入り奮ひ戦ひて死す。法名了運。
(中根平左衛門信照の個人譜)
『寛政譜』は幕府側が編纂したものだから、二股城を開城し、1300人近い部下の渇水死を救ったこともとりあげていないし、家康が中根正照と青木又四郎をゆるさず、浜松城へ入れなかったことにも筆がおよんでいない。
二股城は、武田勝頼軍の包囲にも屈っせず、2ヶ月も守って、信玄をイライラさせている。
それだけでもほめられるべきだとおもうのだが。
家康は、戦死した平左衛門の家を、再興させていない。
二股の旧町役場庁舎のかたわらには、500年前に篭城軍が天竜川から水を汲みあげていた櫓が復元されていた。
【つぶやき】『鬼平犯科帳』文庫巻3[あとがきに代えて]には、
早いもので〔鬼平犯科帳〕も、三冊目に入った。
この機会に、主人公・長谷川平蔵について、いささかのべてみたいとおもう。
長谷川平蔵は、実在の人物である。
平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣(まさのぶ)の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元(よしもと)につかえた。
義元がも、織田信長の奇襲をうけ、桶狭間(おけはざま)に戦死し、今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった。
長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、
「奮戦して討死す。年三十七」
池波さんは、どこかで、記憶ちがいをしたまま、ずっときている。作者が逝ってしまったいまとなっては、訂正のしようもない。
三方ヶ原を調べるたびに、もっと早く、池波さんに言ってあげるべきだった---とホゾをかむ。
【これまでの、ちゅうすけのひとり言へのリンク】
(リンクの仕方 各項の頭のオレンジ色の番号を)
[19 『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん]2008.7.10
[18 三方ヶ原の戦死者---夏目]次郎左衛門吉信]2008.7.4
[17 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]2008.7.3
[16 武田軍の二股城攻め]2008.7.2
[15 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]2008.6.27
[14 三方ヶ原の戦死者リストの区分け]2008.6.13
[13 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]2008.6.12
[12 新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]2008.5.9
[11 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問]2008.4.28
[10 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論文]2008.4.5
[9 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]2008.3.17
[8 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]2008.2.15
[7 長谷川平蔵と田沼意次の関係]2008.2.14
[6 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]2008.2.13
[5 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]2008.2.8
[4 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先]2008.2.7
[3 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]2008.2.6
[2 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿]2008.1.29
[1 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]2008.1.17
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コメント
早速「蝶の戦記下」再読しなおしています。
今日の「寛政重修諸家譜」拡大でとても読みやすいでした
投稿: みやこのお豊 | 2008.07.03 14:53