〔菊川〕の仲居・お松(8)
音羽町8丁目の料理茶店〔長崎屋〕の風呂場である。
「ごいっしょにいかがですか?」
お留(とめ 33歳)に誘(いざな)われ、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの鬼平)は共湯(ともゆ)をした。
町の銭湯の混浴が禁じられたのは、このときから20数年後である。
ただ、武家方には内湯があり、銭湯へは行かない。
(司馬江漢 町の混浴図 左の男がむすめにセクハラを)
(おれという男は、おんなといっしょに風呂へ入ることになる定めのようだ)
14歳のときには、三島で訪れたお芙沙(ふさ 25歳前後=当時)が、そこの内湯で背中を流してくれた。
初めての体験であったが、あれ以来、風呂とおんなが、ひと揃いになったようだ。
(いや、悪い組みあわせではなく、学而塾の悪友たちに告げたら、背中をどやされるだろうが、そういう仕掛けになってきている---ということだ) (歌麿『入浴美女』)
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)
18歳のときには、芦ノ湯村は、離れ屋のひろびろとした湯船で、阿記(あき 21歳=当時)が背中をあずけてきた。
阿記は、夫との縁切りをするために、実家へ帰ってきたのであった。
あの湯治宿〔みょうがや〕の湯舟に比べると、ここのは、湯殿もせまく、お留と2人だと、身動きもままならない。
この店を利用するおんなづれの客なら、この狭さをよろこぶのだろうか。
【参照】2008年1月1日~[与詩(よし)を迎えに] (12) (13)
21歳のときには、お静(しず 18歳=当時)と、夕立で濡れた着物を浴室で脱ぎ、下帯と湯文字姿のお互いを笑いあって、けっきょく、なるようになってしまった。
お静と2人きりの風呂場であった。
【参照】2008年6月2日[お静という女] (1)
ここでは、女中に案内されたので、これまでの風呂づかいとは感じが異なった。
微妙にこだわりがある。
お留のほうは町方暮らしで、他人に見られての混浴も馴れっこだった。
(栄泉『ひごずいき』部分 お留のイメージ)
だからお留は、豊かになりはじめている肉(しし)置きを平気で見せつけて、躰を拭いてでていった。
見るともなく見ていた銕三郎は、
(30おんなの肉置きに、捕囚(とりこ)になりそうだな)
予感を下腹に感じ、お留が浴衣をはおってでていくまで、湯桶から出られなかった。
お静が京都へ去ってから1年ぶりに人差し指と中指を立てた分をこなした後なのに、もう、きざしていたのである。
手桶でなまぬるい水を汲み、浴びせたが、2,3杯では、効かない。
水をふくんだ手ぬぐいを掛けて、治(おさ)める。
蚊帳の中からお留が、
「あなた。ここ、このまま、泊まることもできるそうですよ。晩の食事が要るのなら、早めに言えって---」
これまでの[長谷川]さまが、[あなた]に変わっている。
「なんどきだろう?」
「七ッ(午後4時)すぎでしょ」
「いまから雑司ヶ谷へ行くと、七ッ半(午後5時)だな。ちょうど、客どきで忙しくなる---」
「泊まって、明日の四ッ(午前10時)ごろに伺うのは?」
(都合で、明日に延びた)と認(したた)めた〔橘屋〕忠兵衛あての手紙を、店の老僕に託した。
「お留どの」
「もう、お留どのはおやめください。お留って言ってください」
「では、お留。拙は五ッ半(午後9時)まではいっしょにいられるが、泊まるわけにはまいらぬ。明日、また、迎えにくる」
「そんな。夜中に殺し屋がきたらどうしてくれます?」
「その心配もあったな。では、屋敷への使いも頼もう」
「ついでに、早めの夕食を言ってきます」
お留は、いそいそと、降りて行った。
夕食のあと、
「お松の生まれとか、癖(くせ)とか、信心とか---なんでもいいから、覚えていることを話してください---くれないかな」
銕三郎に躰をあずけたまま、お留がぽつりぽつりと語ったのをまとめると、中山道・熊谷在の農家の次女にうまれ、伝手(つで)があって亀戸(かめいど)の蕎麦屋の小女をふりだしに、あのあく抜けた面立ちなので、世話する男たちが絶えず、料亭〔越前屋〕などを経て、〔古都舞喜〕楼へ---といった経路を話していたが、どこまでが真実かわからない。
(亀戸の料理舗〔越前屋〕 『江戸買物独案内』 1824刊)
【ちゅうすけ注】上掲・左の〔玉屋〕は、『鬼平犯科帳』巻2[妖盗葵小僧]でこの賊に凌辱された料亭〔高砂屋〕の若女房おきさ(27歳)の実家である。p159 新装版p168 なお、おきさは離縁ののち巻18[蛇苺]p80 新装版p83 なお、聖典では池波さんはぼかすために亀戸天神前としているが、史料によると裏門脇。生簀からあげた鯉料理が有名だったが、現存していない。
どこで〔舟形(ふながた)〕の一味へ加わったかも想像がつかない。
【参照】2008年4月19日~[十如是(じゅうにょぜ)] (3) (4)
黄粉(きなこ)おはぎに目がなかったことは、はっきりしている。
「深川・佐賀町の有名菓子舗〔船橋屋織江〕は、羊羹が名代だけど、あたしは黄粉おはぎが絶品だとおもうな」
そういって、しばしば通っていたと。
(菓子舗〔船橋屋織江〕 『江戸買物独案内』 1824刊)
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻8[白と黒]p206 新装版p217 に登場する〔船橋屋〕伊織はこれがモデル。
巻10[犬神の権三]p27 新装版p28 でおまさとおしげが入る北大門の〔船橋屋〕は支店。川柳に「船橋をわたってきたと杜氏(とうじ)いい---杜氏(菓子職人)が船橋屋で修行しましたと、自分を売り込んでいる句。
蛇足ながら、いま葛餅で有名な亀戸〔船橋屋〕はつながらない。地下鉄新宿線[木場]北側の〔船橋屋〕は縁者。
それから、便秘で困っていたとも。
「黄粉おはぎが大好物とな」
あいまをみて、銕三郎は、〔橘屋〕忠兵衛が提案していたことを、お留に告げた。
それは、人別にかかわることであった。
(中仙道 沓掛宿のあたり 『五街道細見』より)
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻8[明神の次郎吉]で、〔明神(みょうじん)〕の次郎吉が心臓発作の宗円坊を看取るのは、沓掛から諏訪寄りの小田井宿-追分宿間の前田原。次郎吉が歌う♪エエ、笠取のォ、鴉がカアと鳴くゥときは---の笠取峠は、さらに諏訪寄りの、長久保-芦田間の峠。
生まれた土地を、羽前(うぜん)国村山郡(むらやまこおり)成生(なりう)から、仮に、信濃(しなの)国佐久郡(さくこおり)沓掛(くつがけ)村とすること。
名を、軽井沢から「お軽(かる)」「お沢(さわ)」、中仙道・追分宿(おいわけしゅく)と軽井沢宿(かるいさわしゅく)の中間だから「お仲(なか)」---あたりから選ぶか、自分でつけたい名があったらそれを決めておくこと。
「こうして睦(むつ)みあっているときに、どの名でお呼びになりたいですか?」
「お軽、かな」
「それ、あてつけ?」
「そう、とるのか。では、お仲」
「あたしも、あなたのこのたくましいのが、いつも中へ入ってくださっているつもりで、お仲に---」
6ッ半(午後7時)をすぎると、さすがに、隣や向いの部屋にも2人連れ客が入り、薄壁らしく、隣部屋の気配は、ほとんど察しがつく。
銕三郎とお留は、かすかな闇の中で声をひそめ、くっつきあっている汗ばんだ肌と肌で、お互いのこころをたしかめている。
2人に、夜は、甘く、長かった。
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お留のイメージ)
【参照】2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (9) (10) (11)
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