〔お勝(かつ)〕というおんな(3)
「拙の顔は女将に覚えられているはずだから---」
「分かってますって---」
「彦さん。これは、火盗改メの極秘の仕事です」
「分かってますって---」
〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 33歳)は、いとも気やすく請けおった。
彦十と銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)のあいだがらは、いまでは、「彦さん」「銕っつぁん」と呼びあう仲になっている。
「彦さんは、友だちの鹿(しし)どのといっしょの見張りだから、頼むほうもこころ強い。彦さんが居眠りをしても、鹿どのがしっかりしていようから---」
「こころやすそうに言わねえでくだせえ。でえじな、でえじな、ダチなんでやすから」
「それは失礼」
【参照】2008年5月16日~[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
銕三郎は、幕府の米御蔵がならんでいる中でも、もっとも北側にあたる1番蔵の端の御厩の渡しの舟着き前の茶店〔小浪(こなみ)屋〕の女将の住まいをさぐってもらうように頼んだのである。
渡し舟が往復をやめる五ッ(午後8時)には、店の灯(ひ)もおとして帰るだろうから、そこを尾行(つ)ければ、住まいはすぐに知れる、と彦十におしえた。
翌日、稽古が終わるころ、彦十が高杉道場へ、探索の顛末を告げにやってきた。
法恩寺門前の蕎麦屋〔ひしや〕へ彦十を誘った。
剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 23歳)もついてきた。
〔物井(ものい)のお紺(こん 29歳)が身をかくしてからは、どことなく屈託がなくなって、なにかというと、銕三郎を頼りにする。
左馬之助は、桜屋敷のむすめ・おふさが嫁(とつ)ぎ、お紺が行方をかくしたいまは、おんなとのかかわりが絶えてもいる。
昨夜、彦十が張りこんだのだが、〔小浪〕の女将は、店の灯をおとし戸をしめても、店から帰る様子はなかった。
小半刻(30分)ほども見張っているうちに、若い男がやってきて、戸をこつこつと敲き、するりと入りこんだ。
しばらくすると、窓の灯が消えた。
「それからは、銕っつぁん。お定まりの茶番劇のはじまりでさあ」
「彦さん。戸に耳をつけて聞いたのか?」
「念には念を、とおもってね---けっけけけ。ひでえ出事(でごと 性交)声で、とんだお耳の悦楽でしたよ」
(男が木賊(とくさ)の元締の林造(りんぞう 59歳)のところの若い者頭の今助(いますけ 21歳)でなければいいが---)
銕三郎は、ご苦労だが、今夜も張りこんで、こんどは、男のほうの住まいをつきとめるように頼んだ。
「いいともよ。でも、2晩つづけて、くるかなあ」
「若ければ、3番つづけてだろうと5番だろうと、へでもあるまい」
これは、左馬之助の無駄口。
「岸井さん、〔ばん〕ちがいです。岸井さんがご想像しているのは、さしつ、さされつなんで、3局、5局と数えますんで---」
「〔きょく〕なら〔曲〕のほうが似合う。歓喜節1曲目、2曲目---」
「左馬さん。おふざけはそれくらいにして---拙には、まじめな話なのだ」
「おれも、彦さんを手伝おうか? 尾行(つ)けるとなれば、女将のほうと、男のほうと、2人いたほうが重宝だ」
左馬之助が充分に乗り気らしいので、銕三郎は、女将は今戸の香具師(やし)の元締---〔木賊〕の林造の囲いおんなだと明かした。
「うっかりも手をだすと、簀巻(すま)きにされて大川へ、どぶんだ」
「それにしちゃあ、昨夜の若えのは、てえした度胸でやんすねえ」
彦十が感心している。(歌麿 小浪のイメージ)
左馬之助は、余計に好奇心をそそられたか、〔ひしや〕の前で銕三郎と別れると、春慶寺へ帰るふりをして、その実、石原町の舟着きから、三好町へ渡った。
袴をはき、2本刀を帯ているから、渡し賃は不要である。
しばらく、左馬之助を尾行してみよう。
幕府米蔵北の舟着き場の茶店〔小浪〕へ入っていった左馬之助は、茶を給仕した女将に、
「小浪さんでしたね? なるほど、美形だ」
「あたしは小浪ですが、お初にお目にかかるお武家さまとお見かけしますが---」
「銕っつぁん---いや、長谷川銕三郎の道場仲間でしてな」
名乗っておいて、つづけた。
「今戸の〔木賊〕の元締のところの若い衆にヤットウを教えてる、井関録之助というのも剣術仲間でな。以後、お見知りおきを---」
「井関さまは存じませんが、長谷川さまは、つい、2、3日前に、お目もじいたしました。それが、なにか?」
「いやいや。長谷川が、たいそうな美形だから、いちど、拝んでこいと、こう言ったものですから、こうして、参上つかまつった次第---」
「ご冗談ばっかり---」
小浪は、伏せ気味の顔から艶な上目をつかって左馬之助を見つめる。
左馬之助は股間が熱くなった。
そのとき、渡し舟が着き、3、4人の客が入ってきたので、小浪はそちらに離れる。
客の中の一人、中年増---26,7に見える、顔のととのった、痩せ気味のおんなが、ついと小浪に寄りそい、
「今夜、お借りします」
うなづいた小浪が、帯のあいだから、何かを渡した。
左馬之助は、茶代を置いて、わざとゆっくりとした足取りで、そのおんなを尾行(つ)ける。
おんなが、蔵前の通りを横切り、框(かや)寺(現・台東区蔵前3丁目22)の裏手の仕舞(しもう)た屋の錠をあけて入っていったのをたしかめた左馬之助は、そのまま、大川橋のほうへ立ち去った。
だから、左馬之助がでていったあと、小浪が店の小女に文をもたせて遣いにだしたのは見ていない。
その文には、
「今夜は、〔蓑火(みのひ)〕のところのお竜(りょう 29歳)さんと、お勝(かつ 27歳)さんが家を使うため、店で寝ますから、お越しにならならないで---」
と書かれていたことも、左馬之助は知らない。
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コメント
彦十さんと鹿の関係,すてき.
わたしにも,ほしいです.
投稿: tomoko | 2008.10.14 05:13
>tomoko さん
彦十も、〔風早(かぜはや)〕の権七も、〔仲畑(なかばたけ)〕のお竜も、いてふしばのないキャラだとおもいます。
いま、つくっているのは、〔橘屋〕のお雪。あさってごろ、登場してきます。ごひいきに。
投稿: ちゅうすけ | 2008.10.14 07:11