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2009.07.19

高杉銀平師が心のこり

高杉道場内の北側の隅で、銕三郎(てつさぶろう 27歳)と岸井左馬之助(さまのすけ 27歳)が声をひそめて語っている。
左馬さん、道斎先生のお診立てはどうなのだ?」
「それが、はっきりとはおっしゃらないのだ」
「左馬さんの訊き方が手ぬるいとはおもえないし---」
「先生の病室でははばかれるから、道斎先生の家まで行き、何を食べさせれは精がつくかとせがんだのだが、首をふられるばかりであった」

高杉銀平(ぎんぺい 66歳)師も、銕三郎左馬之助井関録之助(ろくのすけ 24歳)へそれぞれ皆伝を授けたから、剣師としては、もう、思い残すことはないと言いつづけてきた。
「人は生まれ落ちたときから死に向かって歩いている。人はとりあえず50年も生きれば、与えられ生命はまっとうしたとおもわねがならぬ。しかるに、わしは、さらに16年も生かしてもらっている。わが身にはすぎたことよ。いつ、どうかなっても頓着するでないぞ」

「もしものときに、お知らせする高杉先生のご縁の方々のお名は?」
「お訊きしても、その必要はない。中川の土手の端にでも穴を掘って埋めてくれればそれでいい。墓など無用である---とおっしゃっているのだ」

左馬さん。拙は4,5日のうちにも、父に代わって京へ先発しなければならぬ風向きなのだ。先生のことは、くれぐれもろしく頼む。もしもし、金が入用なら、父が離府していたら、用人の松浦与助 よすけ 先代 56歳)に遠慮なく言いつけてくれ。父からもようく言い聞かせておいていただくから---」
「こころ強い。まあ、ほどほどのことなら、臼井のわが里(臼井 現・千葉県佐倉市臼井)の方でもなんとかしてくれるとはおもうが---」

「それより、そなた、精の吐きだしはどうしておるのだ?」
率直に訊く。
独り身の青年の悩みの半分はこれである。

「懐(ふところ)しだいだ。あまっている時は、入江町の鐘楼下の娼家〔浦安屋〕で放出(ほうでん)しておる、それがどうかしたか?」
「〔橘屋〕のお(ゆき 27歳)どのとは---?」
「ちかごろ、とんと顔をあわしていない。かの人とだと、音羽の出会茶屋のかかりがたいへんなのだ」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所・桜屋敷]では、銕三郎は、青年時代を入江町の鐘搗堂(時ノ鐘)のまん前の家ですごしたことになっているが、そこにあった長谷川家(同じく400石)は、京都系統の家。鐘搗堂の下には3軒の私娼家があったと史料に記されている。

Photo
(入江町と池波さんが想定した長谷川邸と、邸前の時ノ鐘屋敷 近江屋板)

参照】2008年10月22日~[〔橘屋〕のお雪〕 () () () () () (

青年がとおりすぎなければすまされない道しるべだった。
とすれば、いちど嫁いだ躰ではあるし、あとへのかかわりがなしに楽しめた相手であったのであろう。

高杉先生は、まさかのときの道場を、左馬さんに任せるとはおっしゃらないか?」
(てつ)さんが旗本の嫡男でなければ---とは、おっしゃったことがある」
「おれが駄目なことはお分かりのはずだが---」
「剣は、腕よりも人品だとおもっておいでなのだ」
「無欲ということでは、左馬さんのほうが、おれなんかより数段上だ」
「人品と無欲はちがう」
「そうかな」

「それはそうと、京へ先発するのは、なぜだ?」
「それが、おれにも、よくはわからぬのだ」
「お上には、隠しごとが多すぎるな」
「まったく」
さんがそう言っては、実もふたもない」
「はっ、ははは」
「う、ふふふ」
「しっ---」

「おんなのことで相談ごとがあったら、町駕篭屋の〔箱根屋〕の権七(こんしち 40歳)どのか、今戸の〔銀波楼〕の小浪(こなみ 33歳)どのに頼むといい」
「分かった」
小浪どのなら、いい遊び友だちを世話してくれよう」

(これで、左馬さんへの手くばりは、なんとかすんだ。おんなのこととなると、手近にしか目がいかない仁だから---)
銕三郎は、自分のことは棚にあげて、そう断じた。いい気なものである。

岸井左馬之助のヰタ・セクスリアス
参照】2008年10月22日~[〔うさぎ人(にん)・小浪] () (2) (3) (4) (5) (6) (7)


銕三郎のヰタ・セクスリアス
2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]
2008年1月2日~[与詩(よし)を迎に] (13) (14) (41
2008年6月2日~[お静というおんな] (
2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] (
2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根船
2008年11月26日[諏訪左源太頼珍] (

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