〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三
先手・弓の3番手の筆頭与力・古郡(ここおり)数右衛門---と書いても、ほとんどの方は覚えいていまい。
いま(安永6年 1777)から4年前---火盗改メだった庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳=当時 2600石)のときに、平蔵(へいぞう 28歳)が、この組を手伝った。
【参照】2010年2月8日[火盗改メ・庄田小左衛門安久 ] (1) (2)
(1)と(2)つながりがおかしい?
そのとおり。 この1話を抜いている。
【参照】2010年2月9日[庭番・倉地政之助満済(まずみ)]
そして、(2)の先は、
【参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
ブログは、クリック一つで過去コンテンツに飛べるから便利だが、わずらわしくあることも事実。
これから数日は、〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(いさ 58歳)---というより、聖典巻10[大川の隠居]で語られた、〔飯富(いいとみ)〕の勘八(かんぱち 享年=62歳)と〔浜崎(はまざき)〕の友蔵の、あの好篇から14年前の手柄話だから、〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛への回顧は、ほどほどにし、こっちの展開に集中していただきたい。
安永6年春---。
火盗改メ・本役は、土屋帯刀守直(もりなお 44歳)であった。
昨秋から4月16日までの加役---つまり、火事の多い冬場の助役(すけやく)を、先手・弓の3番手の組頭の長田(おさだ)甚左衛門繁尭(しげたけ 56歳 1300石)が勤めていた。
長田組の筆頭与力が古郡数右衛門。
長い導入部になってしまったが、古郡与力から平蔵へ声がかかったことを説明するには、この遠まわりもいたし方なかった。
「組のほうは、まもなく、お役ごめんとなりますが、手をつけている事件だけは解決しておきたいので、お知恵をお貸しいただきたい」
高崎の事件で味をしめた平蔵は、
「番頭・水谷(みずのや)出羽守(勝久 かつひさ 55歳 3500石)さまの許しをおとりいただければ---」
出仕と引きかえなら、探索を引きうけてもいい、と返事をした。
与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 58歳 800俵)の問いに、
「15日もあれば---」
さばを読んで応えた。
うまく、せしめた。
長田組頭の役宅は、麹町・御厩谷(おうまやがたに)であった。
組屋敷は四ッ目南割下水。
(いまはない〔盗人酒屋〕の近く)
麹町の役宅へ出向くより、深川・横川に架かる菊川橋詰の酒亭〔いさご〕を、夕刻六ッに指定すると、古郡筆頭が゜、これも顔なじみの脇田祐吉(ゆうきち 32歳)をしたがえてあらわれた。
組屋敷から近いので、まるで隣家へでもいくような羽織袴なしの、くつろいた姿であった。
平蔵のほうは、芝一帯の香具師(やし)の元締・〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞ゛う 47歳)に声をかけておいた。
賊に襲われたのが、飯倉町2丁目の紙問屋〔萬(よろず)屋〕小兵衛だったからであった。
(赤○=飯倉2丁目の紙問屋〔萬屋〕小兵衛
『江戸買物独案内』 1824刊)
飯倉も、増上寺まわりや西久保八幡が伸蔵のシマだからである。
伸蔵は、息子の伸太郎(しんたろう 27歳)をともなっていた。
小部屋の近くには客がいないように気がくばられていた。
脇田同心が説明した。
裏塀の通用口から賊たちが押し入るとき、くぐり戸を開けた下男の伊三(いぞう 56歳)を、小用に起きた小僧がみとめたのだという。
小僧はそのまま雪隠から出なかったので縛られなかった。
だから、賊たちが860両(1億3,760万円)を持ちさると、近くの辻番所へ走った。
下男小屋で自分の荷物をまとめていた伊三がつかまった。
ところが伊三はなにも白状しないばかりか、ひとこともしゃべらない。
最初の3日は、御厩谷の役宅の仮牢で取り調べたが、いまは大伝馬町の牢へ移し、尋問のたびに麹町の役宅の白洲へつれてきているという。
ところが、事件は別の様相になった。
伊三をがくぐり戸をあけて手引きしたところを目撃した小僧が行方知れずになった。
2日目に〔萬屋〕へ文が投げこまくれた。
表の大戸をあけたとき、戸のどこかにはさまれていた結び文が落ちた。
伊三を釈放しなければ、小僧を帰さない
---と、あった。
大伝馬町の牢へ移す前の、役宅の仮牢にいるあいだなら、釈放も闇から闇へ始末できたのだが、いまは留め書にのこってしまっているためーそれもできないと。
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コメント
また、新しい事件への、平蔵さまの挑戦ですか。
池波先生と知恵比べ?
投稿: tomo | 2010.09.13 05:34
>moto さん
>池波先生と知恵比べ?
とんでもありません。
400人からの盗賊を造形され、130話を越す事件をおつくりになったおん大将さまと競うなんて、てんから考えていません。
ただ、長谷川平蔵という史実上の人物が、火盗改メを拝命するまでのあれこれを想像しているだけです。
それと、平蔵が生きていたときの幕府の人物たちを。
それともう一つ---おまさ救出。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.13 11:02
お久しぶりです。
「飯倉二丁目の紙問屋萬屋小兵衛」に釣られて参りました。
以前、御宿かわせみのファンサイトでも「江戸買物独案内」の話題を取り上げたことがあります。
この萬屋小兵衛店が舞台になった「川のほとり」、「鬼ごっこ」←(店の名前は変わってますが明らかにモデル)を平岩先生が発表されていますね。
そうしたら、ご子孫の方がそのサイトのBBSに書き込んで下さり、「萬屋小兵衛」店は明治以後も続いていたものの、太平洋戦争の空襲で焼かれてしまったことなどをお知らせくださいました。
ちなみにご先祖は甲賀の出身だそうで、同じ飯倉二丁目にある「水油仲買」の萬屋も同族だ、とのことでした。もう一軒薬種商の同族がある、とのことでしたが、どのお店か私には特定できませんでした。
飯倉界隈はお店の数がそんなに多くないので、ピックアップしやすく、「御宿かわせみ」に「江戸買物独案内」が使われている、かどうかの検証がしやすかったです。
投稿: asou | 2010.09.13 12:20
>asou さん
ほんと、お久しぶりでした。
平岩さん『御宿かわせみ』[川のほとり]、読み返したてみました。
たしかに、飯倉2丁目の〔萬屋〕小兵衛が舞台ですね。まあ、方月館の近くの店を『買物独案内』でさがせば、〔萬屋〕紙問屋も候補の一つにになりますね。
それより、うちの香華寺は長谷寺の末寺なので、そのあたりは春秋の彼岸にいつも参り、地勢もわかっています。切絵図には、たしかに小川があります。橋名は平岩さんの命名でしょう。
また、なにか、お気づきになったらお知らせください。
そうそう、[卯の花匂う]に御所汚職のことでていますが、新装版では、山村京都町奉行の名が消されています。年代が合わないからでしょう。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.15 09:32