田中城しのぶ草(8)
本多伯耆守正珍(まさよし)侯へ、田中城代のことは、平蔵宣雄(のぷお)息・銕三郎が同窓の大久保甚太郎から聞いたように告げた。甚太郎の祖父・荒之助忠与(ただとも)は目付(めつけ)をしている。
じつをいうと、銕三郎に花をもたせたのである。
いや、甚太郎が話したことは事実である。
宣雄は、本多平八郎がからんだ[田中城攻防]件で、加賀屋敷(現・新宿区市谷加賀町1丁目あたり)に三枝(さいぐさ)備中守守緜(もりやす 6500石)を訪ねたとき、武田方として田中城を守っていた将の一人・三枝虎吉(とらよし)の孫で、幕臣になっていた勘解由(かげゆ)守昌(もりまさ)が城代に任じていた因縁話も聞かされていたのである。
そのことを正珍侯へ言わなかったのは、銕三郎のおぼえを一つでもよくしておきたいとの気くばりであった。
銕三郎の旅支度がせわしなくはじまった。
実母・妙(たえ 戒名から推測の名)は、旅用の野袴(のばかま)を縫ったり、肌着をそろえたりで寧日もない。
宣雄は、小者・六助を先発させた。宿舎々々に路用金を預けておくためである。
少年とあなどった浪人から無法をふっかけられて持ち金を奪われても、旅籠代に困らないですむ。
もちろん、銕三郎は家禄400石、父親は1000石高格の小十人組頭である、一人旅をさせるはずがない。
老僕の太作が付き添う。
宣雄は、道中地図をととのえたり、田中藩本多家の上屋敷から藩内の通行手形を受け取ったりと、息子の初旅にあれこれ気をまわしている。
しかも、夜には、例の田中藩主だった主と、いまの当主の名簿を穴があくほど眺めては、ひとりでうなずいたりしている。本多侯の案は手じまいされたとはいえ、銕三郎がここまで調べた名簿である。おろそかにはできない---というより、後ろ楯になってくれる藩主がこの中にかくれているかもしれないのだ。いや、自分はいい、銕三郎が家督したあとのときにだ。
松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
大田摂津守資次(すけつぐ)侯 45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯 22歳 沼田3万5千石
こんやは、大田摂津守資次侯に目を凝らしている。もちろん、宣雄は、30数年後に、銕三郎改め平蔵宣以(のぶため)が、侯の一族で火盗改メ助役(すけやく)となった太田運八郎資同(すけあつ)に讒訴されることになるなどとは、夢にもおもっていない。
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
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コメント
11: ちゅうすけ
『藤枝市史 上』(藤枝市 1980.3.31)から転記。
太田備中守資直(すけなお)は、貞享元年(1684)7月19日、浜松城主から田中城主となって50,000石を領した。家老は河野賀右衛門、山田宇右衛門である。
資直は太田道灌の後裔で、その年の8月9日、若年寄に抜擢され、更に側用人に進んだが、元禄元年(1689)12月、故あって出仕を停められた。宝永2年(1705)1月2日、48歳で歿した。
太田備中守資晴(すけはる)は、資直の第5子であったが、他の4人がいずれも早世したので家をついだ。その時僅かに11歳。その4月20日、封を陸奥国に移され、棚倉城に治した。
田中在城は僅かに2ヶ月であった。
資晴はその後寺社奉行、若年寄等に用いられ、享保13年(1728)9月、上野国館林城にうつされ、19年(1734)9月、大坂城代に進み、大阪に卒した。子孫は延享3年再び掛川城主にうつされ、50,000石を領していたが、明治元年(1868)上総国芝山城にうつされた。
投稿: ちゅうすけ | 2007.06.26 09:54