ちゅうすけのひとり言(22)
このところ、[ちゅうすけのひとり言]が多すぎるようだ。
第1回は、2008年1月17日であった。
こんなふうに書き出している。
これは、まったくの独り言である。
史実の長谷川平蔵宣以(のぶため)と、小説の鬼平を調べていて、ふと生じた疑問や、こうではないか---と思いついたことを、だれにいうともなく、呟いている、そのメモみたいなものと言っておく。
だから、無責任な発言である。
ちゅうすけ自身だけが興味をもったことに、すぎない。
いつ書き留めるという計画も、ない。折りにふれて、呟く。
こうして、『鬼平犯科帳』をよりおもしろく読むための、雑記メモというか、注釈というか---そんなつもりで始めた。ところが、ちゅうすけの雑端(ざっぱ)な体質にもっとも適していたらしく、7ヶ月のうちに21回も書いてしまった。
月3回のペースである。
(色変わりの番号クリックで、その回へ)
(1) [辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した]
(2) [煙管師・後藤兵左衛門の実の姿]
(3) [長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁]
(4) [平蔵の3妹の実態とその嫁ぎ先
(5) [長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期]
(6) [長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係]
(7) [長谷川平蔵と田沼意次の関係]
(8) [吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち]
(9) [長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』]
(10) [吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論文]
(11) [鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問
(12) [新田を開発した代官の取り分---古郡孫大夫年庸]
(13)) [三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗]
(14) [三方ヶ原の戦死者リストの区分け][
(15) [平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日]
(16)) [武田軍の二股城攻め]
(17) [三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照]
([18) [三方ヶ原の戦死者---夏目]次郎左衛門吉信]
(19) [『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん]
(20) [長谷川一門から養子に行った服部家とは?
(21) [あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言
今日の[ひとり言]は、雑司ヶ谷の鬼子母神脇にある料理茶屋[橘屋]である。
『鬼平犯科帳』の2篇にこの店が登場していることは、すでに8月2日の【注】で明らかにした。
そのとき、秋山小兵衛の30歳代を描いた長篇『黒白』(新潮文庫)にも描かれていると付け加えておいた。
こんなふうに描かれている。
雑司ヶ谷は、有名な〔鬼子母神(きしもじん)〕で知られている。
ここの鬼子母神堂は、近くの法明寺(ほうみょうじ)の支院で、本尊の鬼子母神は、
〔求児・安産・幼児保育の守護神〕
であって、江戸市中からの参詣(さんけい)が、四季を通じて絶えたことがない。
「---よって、門前の左右には貨食屋(りょうりおや)・茶店軒をつらね、十月の御会式(おえしき)には、ことさら群集絡繹(らくえき)として織るがごとし。風車(かざぐるま)、麦わら細工の獅子(しし)、水飴(みずあめ)を、この地の名産となす」
などと、物の本に記されている。
「物の本」が『江戸名所図会』であることはいうをまたない。
〔お会式〕でにぎわってい絵も載っている。
(雑司ヶ谷・お会式 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
参道に、米粒大に描かれている参詣人の70パーセントは女性である。
日本橋をわたる群集の絵だと、女性は10パーセントにすぎない。
鬼子母神よりも女性が多くえがかれているのは、芝居小屋街の葺屋町ぐらいである。
鬼子母神に女性の参詣者がいかに多かったか、これでもわかる。
とともに、『江戸名所図会』の長谷川雪旦(せったん)の絵が、写真のように、いや、写真以上に写実的であり、
史料的な価値が高いことがうかがえる。
『名所図会』の雪旦の絵は、江戸愛好者に、もっと研究されていいし、池波ファンなら、池波さんが雪旦の絵からロケーションの描写を創作していることにも目くばりすることだ。
別のブログ---[わたし彩(いろ)の『江戸名所図会』](←クリック)を立ち上げた理由もこれにつきる。
(クリックしてトップ画面があらわれたら、左欄のカテゴリーをずっとおりてゆき『江戸名所図会』巻之一~六までをクリックしてお楽しみいただければ幸い)。
そう、武芳稲荷社の前に、樹齢600年余という銀杏の巨樹がある。法明寺のご住職にお茶をごちそうになったとき、「夜、だれにも見つからないで、あの巨樹を抱いて願うと、子宝をさずかる---といわれています」との話を聞いた。
(ならば、背にして手をまわして願えば、流れますかな?)
などという失礼に質問は、もちろん、控えた。
「ご本堂の下に、隠居金七百両が埋蔵されているのでは?」
と冗談を述べたら、ご住職は、
「その金があれば、本堂の改築がらくにできるのですが---」
とお笑いになった。
はしょって引用をつづける。
ところで---。
この鬼子母神の境内と、
「目と鼻の先---」
にある料理茶屋・橘屋(たちばなや)・忠兵衛(ちゅうべえ)方の離れ屋であった。
橘屋は、鬼子母神の参道の一ノ鳥居より手前を西へ入ったところにあって、他の料理茶屋とは、
「格式がちがう------」
のだそうだ。
通りがかりの人が橘屋へ入って酒飯(しゅはん)をしようとおもっても、ていねいにことわられてしまうにちがいない。
橘屋を利用する客すじは、ほとんど決まってしまっている。
ひろい敷地には、藁屋根の、三間(みま)つづきの風雅な離れが四つほどあり、こみ入った談合や、隠れ遊びには、うってつけであった。
こういう料亭を、池波さんはどこからヒントを得て描写したか、興味のあるところである。
池波さんの料理旅館についてのエッセイ『よい匂いのする一夜』(講談社文庫)からモデルらしいところを探した。
狙い目は、離れ部屋である。
厳島の〔岩惣〕か、湯布院の〔玉の湯〕らしいような気がした。
泊まったことのある〔玉の湯〕と、ひそかに決めた。
池波ファン、鬼平ファンの方のご推察もお聞きしたい。
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コメント
厳島の「岩惣」は宮島の弥山の麓もみじ谷に点在する離れ屋を持つ安政年間に創業した歴史ある旅館ですがロケーション的に鬼子母神の「橘屋」さんとは異なるような気がいたします。
因みに「岩惣」のお客様宿泊年表に池波さんは昭和54年に載っています。
紅葉の頃には周りの自然と一体になって本当に素敵な離れ宿です。
投稿: みやこのお豊 | 2008.08.10 23:22
>みやこのお豊さん
ほう、「岩惣」へお泊まりににつたんですか。
まあ、〔橘屋〕も、池波さんが『江戸買物独案内』をご覧になっての想像の産物ですから、いくつかのモデルの合体と考えておきましよう。
「岩惣」の一部もとりこまれていると。
>因みに「岩惣」のお客様宿泊年表に池波さんは昭和54年に載っています。
おや、『太陽』に連載時の取材のときのことかな。
でも、あとで公表されるんでは、うっかり本名でとまれませんね。
投稿: ちゅうすけ | 2008.08.12 11:08
自然が綺麗な雨引で生まれ育ちました。
筑波の麓 ・・・ 綺麗な水 ・・・
四季の恵みを見て食して味わい、暮らした
十数年は最高でした。
投稿: 飯田正太郎 | 2010.01.17 23:37
>飯田 さん
コメント、ありがとうございました。
>自然が綺麗な雨引で生まれ育ちました。
---とお書きくださいましたが、雨引山の麓=常陸国真壁郡(まかべごおり)本木村あたり(現・茨城県桜川市本木)のことでしょうか?
土地勘が鈍くて、
>筑波の麓
と、本木村がぼくの頭の中で一致しないんです。
恐縮ですが、雨引観音とのかかわりなどもお教えいただくとありがたいのですが。
〔雨引〕の文五郎は、じつに個性的な盗人で、魅かれます。
投稿: ちゅうすけ | 2010.01.18 12:28