一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好(さだよし)(4)
一橋家の筆頭家老・田沼能登守意誠(おきのぶ 享年53歳 700石)の卒日を、『寛政譜』は安永2年(1773)12月19日としている。
これはあくまで、諸手続きをすますための公式の歿日であり、じっさいの命日はこの5日か6日前であろう。
いつか、おりをみて、墓地のある勝林寺(豊島区駒込7-4)へ問い合わせて確認するつもりだが、さしたる重要事項ではではないので、いそぐことはなかろう。
平蔵(へいぞう 28歳)とすると、悔やみを述べに参上するほどに親しくはない---というより、面識はない。
この次に、2歳年長の実兄である老中・主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)の別邸にまねかれたときに、ひとこと、添えればいい。
しかし、意誠にひいきしてもらっていたらしい茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 29歳)はそうもいくまい。
葬儀の裏方をつとめたり、菩提寺での仏事の手伝いなどにかかりきりであろうと、訪(おとな)いは遠慮していたが、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)には、こういう時こそ、真実が洩れおちがちだから、〔貴志〕からの駕篭の行く先をしっかり書きとめてもらいたいと、念をいれておいた。
権七は、預かったものがどこかの家の鍵で、奥方・久栄(ひさえ 21歳)には内緒らしいと察し、〔貴志〕がらみとあたりをつけていたが、なにくわぬ顔をつづけていた。
10年前に、芦ノ湯村の阿記(あき 享年25歳)の件にかかわり、その後も近しくしてい、男のおれが惚れこむほどの平蔵だから、おんなたちが放っておくはずがない、まあ、久栄奥方がこころをお傷めにならないていどのことでありれば見ないことにしようと割り切っている。
【参照】2007年12月29日~[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37)
やがて新年になり、平蔵も諸方のあいさつ廻りにせわしなかった。
出仕が近いと予想している。
〔化粧(けわい)読みうり〕は、元締衆と〔耳(みみ)より〕の紋次の手で順当の板行され、板元の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 42歳)が、約束の板元料の半金だといい、15両(240万円)を持ってきた。
「板木と絵描きさんの分がはぶけ、紙代刷り賃、それに配達の車代だけでしたから、手前の手元にも15両がそっくりのこっておりやすが、これからどんな損を引くかもしれやせんので、預からせておいていただきやす」
「権さん。半金なんて、いってないぜ。ぜんぶ、そっちでとっておきなよ」
「長谷川さま。金はいくらあっても困るものではございやせん。それに、太作(たさく 63歳)爺(と)っつぁてんの竹節(ちくせつ)人参にも、これからしばらく、金がかかりやしょう。平賀源内(げんない 46歳)先生へのお;礼もすんでいないと、松造(まつぞう 23歳)さんから聞いておりやす。お納めになってくだせえ」
【参照】2010年2月7日[元締たちの思惑] (4)
2010年1月12日[府内板〔化粧(けわい)読みうり] (4)
おもわぬ大金がはいったので、松がとれたころ、一橋北詰の茶寮〔貴志〕に、盟友の浅野大学長貞(ながさだ 28歳 500石)と長野佐左衛門孝祖(たかのり 29歳 600石)を呼びだしておごってやろうとおもったが、
(いかん。里貴とのことがバレよう。ちょっと金がはいると、すぐに気が大きくなるのは、精神が貧しい。父上なら、そ知らぬ顔で蓄財なされよう)
しかし、昼餉(ひるげ)でなく、夕刻、独りで訪れた。
行く前に、〔箱根屋〕へ寄り、ぶら提灯を借り、風呂敷につつんだ。
里貴が驚いた面貌で、肌を淡い桜色にそめた。
「田沼さまの後任のご家老がきまったそうだな」
部屋でいうと、里貴が口に指をあて、この奥の部屋へ、ご当人の新庄能登(守 直宥 なおずみ 50歳 700石)が客をしていると告げた。
「設楽(しだら)兵庫頭さまもごいっしょかな?」
里貴は頭(こうべ)をふり、女中頭のお粂(くめ 32歳)にお相手をさせるからお許しをと詫び、奥へ消えた。
(設楽兵庫頭貞好の個人譜)
[一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好] (1) (2) (3)
| 固定リンク
コメント