〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)(9)
潮が引くのを躰中でたしかめるように裸のままお信(のぶ 36歳)は、手を平蔵(へいぞう 32歳)の太腿にあずけたまま、じっと仰向けで動かない。
締めきった部屋には、情事のにおいが満ち、春宵のなまあたたかい大気とまざりあっている。
横向きになり、平蔵の耳もとでささやいた。
「〔戸田(とだ)〕の房五郎(ふさごろう 42歳=処刑時)さんのこと、気になさっていたでしょう?」
「いまは、逝った男のことより、自分のことをかんがえろ」
「〔犬成(いんなり)〕の伍平(ごへい 37歳)さんのことですか? それより、房五郎さんとのことをお話ししておかないと---」
お信の尻丘をぴしゃりと叩き、
「現役(つとめにん)時代のお信がなにをしていようと、おれにはかかわりのないことだ。〔笹子(ささご)〕の長兵衛(ちょうべえ 60がらみ)というのは、どういう盗人(つとめにん)なのだ?」
「訊いて、どうなさるおつもりですか?」
「おれは、盗賊改メではない。ただ、お信への火の粉を案じているだけだ」
「うれしゅうございます」
顔を寄せ、頬に唇をあてた。
そっと押しもどして身をおこし、衣服をつけながら、〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 52歳)に相談をかけることを思案した。
「お腹立ちですか?」
「そうではない」
「〔笹子〕のお頭は、盗み(つとめ)の3ヶ条をきちんとお守りになる方です」
「それと、これとは別のことだ。案じるな。あすの晩には、決まった話をもってくる。明日も、じかにここへくる」
翌(あく)る晩---。
平蔵がもってきた2つの案から、お信に選ばせた。
ひとつは、京都の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 47歳)にかくまってもらう案。
【参照】2009822~[左阿弥(さあみ)〕の角兵衛] (1) (2)
「お会いできなくなります。いやです」
もうひとつの案。
尼になる。有髪のままでよい。まねごとに経は読むが、色事は禁じられない。
「尼寺の仏さまの前で、長谷川さまと睦むのでございますか。おもしろそう」
「ばか。出会茶屋で会うのだ」
平蔵は一瞬、貞妙尼(じょみょうに)の庵所での睦みをおもいだした。
(おれも、どうかしている。鎌倉の尼寺へ入るまえの阿記(あき 21歳=入山時)をおもいうかべないとな)
【参照】2000年10月13日{誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)} (3)
2008年2月4日[与詩(よし)を迎えに] (41)
2年も尼寺に潜んでいれば、〔犬成〕の伍平もあきらめるであろう。
「2年---38のお婆ぁちゃんになってしまいます」
「なにをいう。美人は齢をとらない」
「うれしからせてくださいます。でも、ほんとうに、色事は自由なのでございますね?」
「駄目な話を、〔音羽〕の元締がするわけがない」
お信が尼寺へこもっている間の茶店〔小浪(こなみ)〕は、火盗改メの高遠(たすとう)与力の了解をとれば、今戸の〔銀波楼}の女将・小浪(こなみ 38歳)がみてくれよう。
框(かや)寺裏の家も、小浪が面倒をみてくれることになった。
こんどのことで平蔵が肝に銘じたのは、幕臣として盗人(つとめにん)と識りあうことは、その者の命を預かることだから、その覚悟でつきあうこと---であった。
【参照】2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
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コメント
お信さん、いよいよ、尼寺入りですか。
ちゅうすけさんがおっしゃるとおり、阿記さんも縁切り寺へ身を隠しましたね。
貞妙尼さんは還俗寸前に死に至りました。
(過去記事を読み返し、また、涙をこぼしたところです)
お信さんは、盗賊たちの追跡から逃れるための尼寺入りですから、まさかのことはないかとおもっていますが。
投稿: mine | 2010.09.09 07:31
>mine さん
盗賊世界の噂のひろがり方に、平蔵が注目していたことは、池波さんの文章のはしばしからうかがえます。
編集者がやってきて、あれこれの噂ばなしを落としていくところから、盗人世界のうわさの伝わり方を推察なさったのかもしれませんね。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.10 16:14