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2012.01.20

松代への旅

「本家の四男が真田右京大夫幸弘 ゆきひろ 45歳 松代藩主 10万石)侯の継嗣として養子に迎えられことになってな」
西丸の若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 38歳 与板藩主 2万)は遠慮ぎみに言葉をえらんでいた。

平蔵(へいぞう 40歳)としてみれば、妹の与詩(よし 28歳)を領内にうけいれてもらったこともあり、なにを遠慮なされているのかといぶかしかった。

参照】20111216[長谷川家の養女・与詩の行く方

もっとも、4年前に井伊若年寄の依頼でわざわざ与板まで出張り、領内の商家を荒らしていた〔馬越(まごし)の仁兵衛(にへえ 40前)を二度と与板藩内へ入れないように手くばりしたという貸しはあった。

参照】2011年3月4日~[与板への旅] () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

「その松代藩の江戸詰用人からの頼みがあり、下城のついでに藩邸へ立ちよってほしいとのことである」
「うけたまりした」
おおげさにいい、頭をさげると、井伊直朗侯が笑いながら掌をふった。
2人きりのときはよけいな気を遣うなということであろう。

いうまでもないが、とつけたしたのは、もし、松代藩領内へ出張ってくれということであれば、徒の組のことは3の組頭の沼間頼母隆峰(たかみね 53歳 800石)に留守のあいだは面倒をみるように申しつけてあると、念のいった台詞であった。

参照】2011年9月5日[平蔵、西丸徒頭に昇進] (

桜田門外の松代藩上屋敷を訪れてみると、用人・海野十蔵(50がらみ)が待っていた。
用件は、昨年、領内でおきた一揆は解決したが、これからもないことではないので、武具の一つとして着衣のしたに鎖帷子(くさりかたびら)を発案したものがあり、数奇屋河岸i西紺屋町の武具あつらえ所〔大和屋〕がつくるとわかって見積もりをいいつけたところ、元の案は、
長谷川うじであるからして、長谷川うじの承諾がなければ受けられUいとのことでござってな---」

(ならば、呼びつけるのでなく、若年寄をとおさないで屋敷へくるべきではないのか)
顔にはださなかったが、平蔵のむっとした気分を読んだように、
「じつは、それはご公儀に対する表向きのいいわけで、内密のお願いは---」

今年にはいってから領内で3件の盗難があった。
やられたのは富裕な酒造家ばかりであったが、進入の手口や金の奪い方がそれぞれ異なっていたので、藩の町奉行所でも頭をひねっている。
ついては、
「ご足労がら、お出張りいただけないかと井伊兵部少輔さまへお頼みずみです。いや、外様の分際でお願いするのはこころ苦しいが、殿がお親しくご指導をいただいておられる寺社ご奉行の高崎侯松平右京亮輝和てるやす 36歳 8万2000石)」より長谷川うじをすすめられましてな」

高崎侯の藩内を荒らした{船影(ふなかげ)〕の忠兵衛(ちゅうべえ 3代=当時)と取引きをして解決したのは8年前であった。

参照】2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () () () (

「よろしい。お引きうけいたすが、条件が一つあります」
「なんでござろう?」
「ご城下での滞在は、本陣や旅籠でなく大きな商家に願いたい。それというのも、出入りを盗賊一味に見られたくない」
平蔵は一瞬、与板の〔備前屋〕の左千(さち 33歳=当時)とのなれそめをおもいだし、心中で舌打ちした。

町家のおんなはやわらかい。
また、似たようなはずみがおきないとは断言できない。

「滞在は、供の者と2人になります」
「お手配しましょう」

鎖帷子づくりを指南する武具屋〔大和屋〕の職人とは別にすることも約束させた。


帰路、松造(よしぞう 35歳)にことの次第を告げ、
「お供させていただきます」
「松代へは53里(212km)、往還に12日、城下での探索に7日。お(くめ 45歳)がひとり寝に耐えられるかな?」
「殿。冗談がおすぎです」
「は、ははは---」

松造を永代橋の西詰で解放し、冬木町寺裏の〔季四〕へむかった。
奈々(なな 18歳)に都合をつけさせるためであった。


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