« ちゅうすけのひとり言(27) | トップページ | 『甲陽軍鑑』 »

2008.10.31

〔伊庭(いば)〕の紋蔵

火盗改メ方の本役・本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)の捕り方同心筆頭・鳥越亥三郎(いさぶろう 48歳)の指揮で、同心4名、小者13名が、〔伊庭(いば)〕の紋蔵(もんぞう 32歳)一味の隠れ家---薬研堀北側の家を急襲した。

参照】本多采女紀品の最新情報は、[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (3)
本多采女紀品と銕三郎のかかわりは、2008年2月10日~[本多采女紀品] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 
2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)

紋蔵は、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳あたり)の配下であったが、今年の1月に破門されていた。

参照】〔伊庭〕の紋蔵と〔木賊(とくさ)〕の林造のかかわりは、[〔うさぎ人(にん)・小浪] (4)

破門の理由(ことわり)は、元旦の盗み(おつとめ)・神田鍋町の海苔問屋〔旭耀軒・岩附屋〕で、一味の働きをよそに、またしても、店主・又右衛門(52歳)の後妻・お(とも 28歳)の鏡台から白玉のかんざしを懐に入れたのが、喜之助お頭に知れたのである。
盗(おつとめ)みのたびに、玉類をあさるので、喜之助がいつも叱るのだが、その盗癖(?)はやまなかった。
盗品を故売するわけではなく、玉類に魅せられていたとしか、いいようがない。

参照】明和5年正月元旦未明の海苔問屋〔岩槻屋〕の事件は、[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (5) (6) 

紋蔵は、近江国神崎郡(かんざきこおり)の、大津宿に近い伊庭村の漁師の息子である。
父親にしたがって琵琶湖で漁をしていたとき、網に白玉をあしらった根付がひっかかった。
それ以来、玉のあやしい魅力にとりつかれ、けっきょく、盗みの道へ入った。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻1[座頭と猿}で、〔夜兎ようさぎ)〕の角右衛門一味の〔尾君子びくんし)小僧〕こと徳太郎が、大坂の〔(くちなわ)〕の平十郎に借りられたので、飯倉3丁目で唐物の〔白玉堂〕をだしている紋蔵にあいさつに行く。この紋蔵の前身が〔伊庭〕の紋蔵である。

ということは、本多組の急襲のとき、どうしたわけか、紋蔵はその隠れ家に居合わせなくて、逮捕をのがれた。
深川・櫓下の娼家にでも居つづけていたか、押入れの奥に秘密の抜け道をつくっていたのであろう。
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)の推察では、抜け穴説である。

武田信玄配下の軒猿(のきざる 忍びの者)の末裔を母親にそだてられた〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が、〔蓑火〕一味の盗人宿や支配下の商人旅籠にかならず設ける抜け道を見しっており、薬研堀のそこにもしつらえたのであろう---これは、<事件後、strong>銕三郎がおと面談したときに、たしかめられた。
ただし、抜けでたら外側から封じるので、家の内側をいくら捜しても仕かけは見破れないと。

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7)  (8)

銕三郎は、自分だけ抜け穴から逃れ、〔蓑火〕一味を脱(ぬ)けてしたがってきた4人を、火盗改メに捕らえさせた〔伊庭〕の紋蔵のやり口は、卑劣で許せない---と、〔木賊(とくさ)〕の林造に告げ、
「あのような卑怯者と手を組んでは、元締の名がすたりましょう」
と説いた。
これがきめてとなり、林造も納得、〔木賊〕一家と〔蓑火〕との対立は、避けられることとなった。

|

« ちゅうすけのひとり言(27) | トップページ | 『甲陽軍鑑』 »

124滋賀県 」カテゴリの記事

コメント

抜け穴もお竜さんんのアイデアで、蓑火一統が覚えたんですか。お竜さんに憧れてしまいます。

投稿: tomo | 2008.10.31 05:29

>tomo さん
『甲陽軍鑑』にも、退路の確保は記されているようですから、お竜としては、当然、〔蓑火〕の喜之助お頭へ助言したとおもいますよ。
非常にしっかりした女性ですね。もっとも、男嫌いというのが、どうもね。

投稿: ちゅうすけ | 2008.10.31 17:35

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ちゅうすけのひとり言(27) | トップページ | 『甲陽軍鑑』 »