奉行・備中守の審処(しんしょ)(8)
手ちがいがおきた。
五条橋下の料理屋〔ひしや〕の女中・お常(つね 32歳)が、〔女誑(めたらし)〕・〔高倉(たかくら)〕の由三(よしぞう 32歳)にぞっこんになってしまったのである。
仲居時代の仲よしで、きせる問屋〔松坂屋〕の後妻におさまり、いまは後家になっているお里(さと 30歳)に
「由はんを引きあわせたら、うちから乗りかえはります」
そうではない、お里からあることを訊ききだすためだ---どれほどいいきかせても、承知しなかった。
世慣れたおんなの直感で、たくらみを見抜いたのであろう。
彦十(ひこじゅう 38歳)が、業をにやし、
「将を射んとおもえば、まず馬を死よ---とはいうけれど、由どんのように、馬を矢でなく、槍(やり)殺しにしてしまったんでは、しゃれにもならねえ」
「〔女誑〕の面目にかけても---」
由三は、お常の名を騙(かた)った文(ふみ)でお里を、五条橋下の料理茶屋〔丸中屋〕へ呼びだした。
(五条橋下の料亭〔丸中屋〕 『商人買物独案内』)
お里は案内された先に、かつての仲よしの同僚ではなく、見しらぬ男がいるのを見て、店の者が案内する部屋を間違えたかと、
「鈍(どん)なことで、かんにんどっせ」
すかさず立ってきた由三が、手首をやわらかくにぎり、肩に触れた掌にそっと力を加え、
「ご新造はんをお待ちしてましてん---」
耳元でいわれただけで下腹がほてり、ふらふらと坐りこんでしまった。
元賢が入牢(じゅろう)してから20日以上も男の肌に触れていなかったこともあり、着物を着たままの相手をあつかうことに馴れている由三のいいなりになったあと、
「お寺はんは、馬みたいのんがお好きどした」けど---」
つい、もらした。
(北斎『させもが露』 イメージ)
由三からの仔細を告(つ)げられた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、苦笑まじりに、
「馬みたいに---とは?」
「うしろから、おおいかぶさりまんのんや」
「わかった]
なにかおもいつくことでもあったのか、銕三郎は、
「つぎにお里と出あったとき、元賢が稚児として修行した寺と、そのときの住職の名をもらしていないか、訊いてみてくれ」
3日のちに、由三が答えを持ちかえってきた。
寺は、八幡・橋本村の行慶寺、和尚の名は洩らしていないらしかったと。
「由三どん。約束してくれるか。お里が口にしたことのすべてを忘れ、他には一言も洩らさないと」
うなずいた由三に、銕三郎が真顔で約定した。
こんご、もし、由三が捕まるようなことがあり、拷問にかけられそうになったら、江戸の南本所・三ッ目通りに屋敷がある旗本・長谷川平蔵宣以(のぶため)を呼べ---というがよい。どこの町奉行所であろいう、生きているかぎり、駆けつけて、拷問はさせないと。
さいわい、その後、由三も銕三郎(のちの鬼平)も、、この約定をつかうことはなかったのだが---。
ついでだが--と前置きし、
「着付も髪もくずさないで相手を極楽に昇天させる手くだも教わりたいが、それより、お常の名を騙って、出あいの場所を五条橋下の、しかも、お常の店のならびの〔丸中屋〕にした理由(わけ)は?」
由三の返事は、
「おんないうのんは、おのれがよう知っとる場所やと、安心してしまう動物でやす」
銕三郎は、おもいあたった。
一瞬のうちに浮かんで消えた、ほろ甘い記憶のかずかずであった。
14歳のときにはじめておんなというものに接したお芙佐(ふさ 25歳=当時)も、18歳のときの阿記(あき 22歳=当時)も、それぞれのホーム・グラウンドともいえる家であった。
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]
2008年1月2日[与詩(よし)を迎に] (13)
(いや、かえりみれば、お静とお竜(りょう)は同じ家とはいえ、そうであったな)
【参照】2008年6月2日[お静という女] (1)
2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (8)
(これはしたり、お豊とのときも---)
【参照】 2009年7月29日[千歳(せんざい)〕のお豊] (10)
この、〔女誑〕が体験から編みだした教訓を覚えていたお蔭で、のちの鬼平は、誘拐されたおまさを助けだすこともできたし、〔荒神(こうじん)〕のお夏を捕らええたが、これは、20年のちの物語である。
【参照】[銕三郎、膺懲(ようちょう)す] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
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コメント
>「おんないうのんは、おのれがよう知っとる場所やと、安心してしまう動物でやす」
〔女誑〕の由三の言葉に納得するのはシャクですが、たしかにいわれてみると、女性の帰巣本能を衝いていますね。
〔女誑〕っていうのも、女性研究をしていないとつとまらない特技なんだと、改めて感じいりました。
投稿: tsuuko | 2009.11.13 05:59
>tsuuko さん
山周的な人生訓にならないように、さらりと世知を書くのって、やってみると、結構むつかしいものです。
お目にとまって光栄です。
投稿: ちゅうすけ | 2009.11.13 15:56